高ひき
冴えない高校生たちがワイワイ繰り広げる基本ほのぼのたまに鬱やんわり女性向け青春?ストーリー
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――すりガラスの向こうで、ひらりと影が動いた。
その時彼の得た感覚は、何かオカルトめいたものに遭遇した時のソレに近い。ぞぞぞぉ、と寒いぼが立つ、とまではいかないまでも、ぎょっとして啓志は目を見張った。だって、さっき自分だって見たし、笠原だってあんなにまじまじ覗いていた。いくらすりガラス越しとはいえ、人影があれば気づかないほうが不自然だ。
置きっぱなしの笠原の鞄の守りなんか忘れて、啓志は美術室入口に迫っていく。
何らかの期待に胸が高鳴っている。誰かいるのだ。先ほどまで、笠原燈月がそこにいた時まではしんとしてなりをひそめていて、彼がいなくなり、教室の前に自分だけになった途端に、踊るように息吹始めた奇妙な『誰か』が。なぜこんな時に限って勇敢になれるかは自分でもかなり謎なのだけれど、啓志は引き戸の取っ手に手をかけてみて、エイヤッ、とそれを引いてみた――開いた。さっきまで、本当についさっきまでは、鍵が掛かってたはずなのに!
異世界への扉を開けたみたいな高揚が、そして啓志を包み込んだ。
――ひらりと制服のスカートが舞う。長く、艶やかな黒髪が、薄ら明るい美術室の机の間を駆けていく。踊るようにターン、しなやかなステップ。爪の先から足のつま先まで、芸術品みたいに行き届いた繊細な動き。教室にたゆたう埃のきらめきまでも、一人きりの舞台を神秘的に演出している。
時間は確かに動いていて、でも現実と言う奴は消え去ってしまったみたいだった。目を擦る、瞬きをする、そんな動きさえ憚られる。その一瞬一瞬のどこをカメラに収めても、どんな額縁にも引けを取らない至高の一枚となるだろう。冗談でも誇張でもなく、確かに啓志はそう思ったのだ。
一歩、二歩と教室へ踏み入れた啓志の手を、するりとその前に滑り込んだ女子生徒の、白く細い手が受け取った。思わずどきっと心臓が鳴る。長いまつ毛の下の瞳が、啓志の手の甲から腕をなぞってその双眸へと、舐めるように視点を移した。
「……あなたはだれ?」
そしてそう言った。よく響き、透明感のある女の子の声。それを紡ぐ、薄くしっとりとした唇。一点の穢れもないように見える頬。きっといくら踊ったところで、乱れることを知らない黒髪……。
カ、カワイケイシ……、としどろもどろに答えると、謎の女子生徒は真っ黒な目で、啓志をじぃっと見つめ始めた。
静かな時間だった。取られている啓志の右手は、汗ばんで、微かに震えてさえいた。何も言えず、啓志はこくりと唾をのむ。どこぞの運動部のランニングの掛け声や、カンカンと螺旋階段を下りてくる生徒たちの賑やかな談笑が、まるでテレビの向こうの出来事みたいに、遠く遠くに思われた。むしろ、現実からどこか別の場所へ精神的に迷い込んでいるのは、啓志そのものであったけれど。
女子生徒はもう一方の手で、そっと啓志の手の甲を撫でる。
「あなた、イイ……背も高いし、顔も合格ラインに乗ってる。やりようによっては、舞台映えするかも……」
「……は、はい?」
訳が分からず啓志が返すと、彼女はひとりでに微笑んだ。
……あれー? 鍵開いたのー? 遠からず聞こえた笠原の声が、唐突に急激に啓志を現実へと引き戻していく。誰か来た、と急に女子生徒は手を放し、啓志の脇をすり抜けて美術室を飛び出した。そして、きょとんとして戻ってきた燈月をスッとかわして、放課後の廊下を駆け抜けていく。
それを見送り、完全に思考停止している啓志を見、笠原は目をぱちくりさせて、なに、どしたの? と啓志に問うた。
「い、今……」
「今?」
「……美術室に、妖精が……」
彼女の去っていった廊下を恍惚として眺める啓志のそんな発言を、燈月は馬鹿にしなかったし、というか理解しようともせず軽く受け流して、へ、と彼の眺める方を向いた。そして、今しがた角を曲がって二人の視界から消えていった生徒の姿を視認する。
「あーあの子か、三橋(みつはし)さんじゃん」
「え!?」
知り合いなの、と食いついてくる背の高い彼に、ちびの笠原はちょっとだけ身を引いた。
「知り合いってか、河合くんも知り合いだよ。だってうちのクラスだし」
……え。
――エエェーっ!?
*
……本当にいる。
翌朝のホームルームの時点で、啓志はこれ以上ないほど浮き足立っていた。あんなにかわいい子が、うちのクラスにいたなんて……無論それは手を触られただの、見つめられただのという事件の後での補正のかかった視線ではあったけれど、それを抜きにしたって『三橋葵(みつはし あおい)』は美人であった。目鼻立ちはくっきりとしていて、長いストレートの黒髪も、ちょっと怖いくらいに真っ白な肌とか華奢な体つきとかも正直普通の生徒から抜きん出ているし、その陰のある表情なんかもうびっくりするほど男心をくすぐってくる。それの、誰も知らない美術室でのとっておきの姿を、俺は知っているんだぜ。そう思うと優越感やらなんやらの感情に襲われて、もちろん啓志は先生の話なんかちっとも聞かなくて、ホームルームが終わったことにさえ気づかない体たらくで、ぼけっとその窓際の席の娘を見つめていた。きりっとした表情のまま顔を下げ机の中へ手を入れて、次の授業の準備を始めるらしい葵から啓志が視線をようやっと外したのは、その視線の間に燈月の顔がドアップで入り込んできたからである。
うわっ、と大げさなアクションで啓志はぴんと背筋を伸ばした。燈月は怪訝とした様子でそのだらしない啓志の表情を覗いてくる。
「なに? なんか河合くん、昨日の放課後から変じゃない?」
そっそんなことないよぉ、と首をブンブン振りながら、啓志はやっぱり窓際の彼女が気になって横目でこっそりチラ見する。トイレにでも立ったのか、手ぶらで二人の席の横を通りかかった鈴鹿がそれを目撃し、啓志のチラ見した方を一瞥した。
「なー今日美術部見学リトライする? それとも別ンとこ行く? あっ鈴鹿くんも行こうやどっか見学ー」
「今日も塾だ」
「じゃー何曜日が空いてるんよー」
「……」
鈴鹿は答えず、視線を降ろし――二人が会話を始めたのをいいことにまた視線をどこかへ飛ばし始めた啓志の方を見下ろした。その焦点は確かに、窓側へと固められている女子側の席へと飛んでいるのである。
鈴鹿が啓志を見下ろしているので、笠原も啓志を見下ろした。
「……河合くん、なんか顔赤くない?」
「へっ!?」
「大丈夫?」
熱でもあるのか、といった意味合いであった様子の笠原の空気の読めない発言に、啓志の顔の温度はいよいよ高くなっていく。湯上りみたいに火照っている啓志を前に、笠原はちょっと首を傾げた。その後ろで、鈴鹿は徐に窓側を向くと、フッ……、と、いやらしいほどキザな溜息の付き方をするのだ。
「……恋でもしたか……」
それだけ言うと、鈴鹿はちょっとニヤリとしながら廊下の方へと歩いていく。
……、な。
――な、なんだそれ。なんだそれッ!
うおぉまじかあああ誰々!? と小学生みたいに一人喜び始めた笠原をよそに、一言置いて去っていった悪魔の背中を目で追いながら、啓志は呆然と――いや、愕然と、顔面をオーバーヒートさせながら心臓の鼓動を聞いていた。ばくんばくん。ばくんばくん。手なんて当てなくたって感じられるくらいに脈打っている全身の血流が、啓志にそれを教えている。
恋でもしたか。
――恋でもしたか!
気づいてしまうと急に窓際が見れなくなって、興奮している燈月の前で啓志は小さくなって俯いた。恋でもしたか。あぁそうなのか。これなのか俺。生まれてこの方女の子は大好きで、女子に囲まれてると幸せで、うきうきしたけど、特定の誰かが気になるとかそういうことはなくて、あの子かわいいなあと思っていても、それはアイドルにするような憧れだったり、なんたってそんなの奥手な自分には手の届かない夢の国での出来事だって啓志はちゃんと知っていたから。それなのに、フラッシュバックするのは――空を舞い、踊る黒髪の合間に自分だけが見た、白いうなじ、鎖骨――自分の手を取り甲を撫ぜる、緻密なガラス細工みたいな彼女の指先――長いまつ毛、自分に向けられた黒曜石の瞳――自分のために言葉を紡いだ、あの麗しい唇。
うわあ。
知ってしまった。
ばくばく高鳴る心臓は、とどまるところを知らないようだ。
あぁそうか――恋でもしちゃったのか!
その時彼の得た感覚は、何かオカルトめいたものに遭遇した時のソレに近い。ぞぞぞぉ、と寒いぼが立つ、とまではいかないまでも、ぎょっとして啓志は目を見張った。だって、さっき自分だって見たし、笠原だってあんなにまじまじ覗いていた。いくらすりガラス越しとはいえ、人影があれば気づかないほうが不自然だ。
置きっぱなしの笠原の鞄の守りなんか忘れて、啓志は美術室入口に迫っていく。
何らかの期待に胸が高鳴っている。誰かいるのだ。先ほどまで、笠原燈月がそこにいた時まではしんとしてなりをひそめていて、彼がいなくなり、教室の前に自分だけになった途端に、踊るように息吹始めた奇妙な『誰か』が。なぜこんな時に限って勇敢になれるかは自分でもかなり謎なのだけれど、啓志は引き戸の取っ手に手をかけてみて、エイヤッ、とそれを引いてみた――開いた。さっきまで、本当についさっきまでは、鍵が掛かってたはずなのに!
異世界への扉を開けたみたいな高揚が、そして啓志を包み込んだ。
――ひらりと制服のスカートが舞う。長く、艶やかな黒髪が、薄ら明るい美術室の机の間を駆けていく。踊るようにターン、しなやかなステップ。爪の先から足のつま先まで、芸術品みたいに行き届いた繊細な動き。教室にたゆたう埃のきらめきまでも、一人きりの舞台を神秘的に演出している。
時間は確かに動いていて、でも現実と言う奴は消え去ってしまったみたいだった。目を擦る、瞬きをする、そんな動きさえ憚られる。その一瞬一瞬のどこをカメラに収めても、どんな額縁にも引けを取らない至高の一枚となるだろう。冗談でも誇張でもなく、確かに啓志はそう思ったのだ。
一歩、二歩と教室へ踏み入れた啓志の手を、するりとその前に滑り込んだ女子生徒の、白く細い手が受け取った。思わずどきっと心臓が鳴る。長いまつ毛の下の瞳が、啓志の手の甲から腕をなぞってその双眸へと、舐めるように視点を移した。
「……あなたはだれ?」
そしてそう言った。よく響き、透明感のある女の子の声。それを紡ぐ、薄くしっとりとした唇。一点の穢れもないように見える頬。きっといくら踊ったところで、乱れることを知らない黒髪……。
カ、カワイケイシ……、としどろもどろに答えると、謎の女子生徒は真っ黒な目で、啓志をじぃっと見つめ始めた。
静かな時間だった。取られている啓志の右手は、汗ばんで、微かに震えてさえいた。何も言えず、啓志はこくりと唾をのむ。どこぞの運動部のランニングの掛け声や、カンカンと螺旋階段を下りてくる生徒たちの賑やかな談笑が、まるでテレビの向こうの出来事みたいに、遠く遠くに思われた。むしろ、現実からどこか別の場所へ精神的に迷い込んでいるのは、啓志そのものであったけれど。
女子生徒はもう一方の手で、そっと啓志の手の甲を撫でる。
「あなた、イイ……背も高いし、顔も合格ラインに乗ってる。やりようによっては、舞台映えするかも……」
「……は、はい?」
訳が分からず啓志が返すと、彼女はひとりでに微笑んだ。
……あれー? 鍵開いたのー? 遠からず聞こえた笠原の声が、唐突に急激に啓志を現実へと引き戻していく。誰か来た、と急に女子生徒は手を放し、啓志の脇をすり抜けて美術室を飛び出した。そして、きょとんとして戻ってきた燈月をスッとかわして、放課後の廊下を駆け抜けていく。
それを見送り、完全に思考停止している啓志を見、笠原は目をぱちくりさせて、なに、どしたの? と啓志に問うた。
「い、今……」
「今?」
「……美術室に、妖精が……」
彼女の去っていった廊下を恍惚として眺める啓志のそんな発言を、燈月は馬鹿にしなかったし、というか理解しようともせず軽く受け流して、へ、と彼の眺める方を向いた。そして、今しがた角を曲がって二人の視界から消えていった生徒の姿を視認する。
「あーあの子か、三橋(みつはし)さんじゃん」
「え!?」
知り合いなの、と食いついてくる背の高い彼に、ちびの笠原はちょっとだけ身を引いた。
「知り合いってか、河合くんも知り合いだよ。だってうちのクラスだし」
……え。
――エエェーっ!?
*
……本当にいる。
翌朝のホームルームの時点で、啓志はこれ以上ないほど浮き足立っていた。あんなにかわいい子が、うちのクラスにいたなんて……無論それは手を触られただの、見つめられただのという事件の後での補正のかかった視線ではあったけれど、それを抜きにしたって『三橋葵(みつはし あおい)』は美人であった。目鼻立ちはくっきりとしていて、長いストレートの黒髪も、ちょっと怖いくらいに真っ白な肌とか華奢な体つきとかも正直普通の生徒から抜きん出ているし、その陰のある表情なんかもうびっくりするほど男心をくすぐってくる。それの、誰も知らない美術室でのとっておきの姿を、俺は知っているんだぜ。そう思うと優越感やらなんやらの感情に襲われて、もちろん啓志は先生の話なんかちっとも聞かなくて、ホームルームが終わったことにさえ気づかない体たらくで、ぼけっとその窓際の席の娘を見つめていた。きりっとした表情のまま顔を下げ机の中へ手を入れて、次の授業の準備を始めるらしい葵から啓志が視線をようやっと外したのは、その視線の間に燈月の顔がドアップで入り込んできたからである。
うわっ、と大げさなアクションで啓志はぴんと背筋を伸ばした。燈月は怪訝とした様子でそのだらしない啓志の表情を覗いてくる。
「なに? なんか河合くん、昨日の放課後から変じゃない?」
そっそんなことないよぉ、と首をブンブン振りながら、啓志はやっぱり窓際の彼女が気になって横目でこっそりチラ見する。トイレにでも立ったのか、手ぶらで二人の席の横を通りかかった鈴鹿がそれを目撃し、啓志のチラ見した方を一瞥した。
「なー今日美術部見学リトライする? それとも別ンとこ行く? あっ鈴鹿くんも行こうやどっか見学ー」
「今日も塾だ」
「じゃー何曜日が空いてるんよー」
「……」
鈴鹿は答えず、視線を降ろし――二人が会話を始めたのをいいことにまた視線をどこかへ飛ばし始めた啓志の方を見下ろした。その焦点は確かに、窓側へと固められている女子側の席へと飛んでいるのである。
鈴鹿が啓志を見下ろしているので、笠原も啓志を見下ろした。
「……河合くん、なんか顔赤くない?」
「へっ!?」
「大丈夫?」
熱でもあるのか、といった意味合いであった様子の笠原の空気の読めない発言に、啓志の顔の温度はいよいよ高くなっていく。湯上りみたいに火照っている啓志を前に、笠原はちょっと首を傾げた。その後ろで、鈴鹿は徐に窓側を向くと、フッ……、と、いやらしいほどキザな溜息の付き方をするのだ。
「……恋でもしたか……」
それだけ言うと、鈴鹿はちょっとニヤリとしながら廊下の方へと歩いていく。
……、な。
――な、なんだそれ。なんだそれッ!
うおぉまじかあああ誰々!? と小学生みたいに一人喜び始めた笠原をよそに、一言置いて去っていった悪魔の背中を目で追いながら、啓志は呆然と――いや、愕然と、顔面をオーバーヒートさせながら心臓の鼓動を聞いていた。ばくんばくん。ばくんばくん。手なんて当てなくたって感じられるくらいに脈打っている全身の血流が、啓志にそれを教えている。
恋でもしたか。
――恋でもしたか!
気づいてしまうと急に窓際が見れなくなって、興奮している燈月の前で啓志は小さくなって俯いた。恋でもしたか。あぁそうなのか。これなのか俺。生まれてこの方女の子は大好きで、女子に囲まれてると幸せで、うきうきしたけど、特定の誰かが気になるとかそういうことはなくて、あの子かわいいなあと思っていても、それはアイドルにするような憧れだったり、なんたってそんなの奥手な自分には手の届かない夢の国での出来事だって啓志はちゃんと知っていたから。それなのに、フラッシュバックするのは――空を舞い、踊る黒髪の合間に自分だけが見た、白いうなじ、鎖骨――自分の手を取り甲を撫ぜる、緻密なガラス細工みたいな彼女の指先――長いまつ毛、自分に向けられた黒曜石の瞳――自分のために言葉を紡いだ、あの麗しい唇。
うわあ。
知ってしまった。
ばくばく高鳴る心臓は、とどまるところを知らないようだ。
あぁそうか――恋でもしちゃったのか!
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