高ひき
冴えない高校生たちがワイワイ繰り広げる基本ほのぼのたまに鬱やんわり女性向け青春?ストーリー
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――遡ること十二時間。
自室の学習机の前で、啓志は途方に暮れていた。
宇城第一高校、俗に『ウシイチ』または『イチ高』指定の体操服には、夏用と冬用とがある。白地にラインの入った半袖シャツと半ズボン、対してジッパーの着いた上着と長ズボン。
開封したばかりのそれらをひとまず机の上に並べてみて、啓志はうーんと唸っていた。
はたしてどちらを持っていくべきか。下についてはまあとりあえず長い方として、上はどうする? 用意したシックな手提げにモスグリーンを詰め込みながら、もしやホームルームで聞き逃したのはこのことではなかったろうかと啓志は感じ始めていた。万一そうであって、ここで選択を誤ったとすれば、啓志は一人違う格好で授業を受けることになる。なんとしてもそれだけは避けたい。当然のように目立つのは嫌いだった。
しばらく立ち尽くした後、ふと名案が思い浮かんだ。そうだ、両方持っていけばいい。啓志は思わず笑顔になった。こんな簡単なこと、どうして気づかなかったんだろう。
しかしそれには問題があった。どちらも詰めこんでみると、どうやってもどこかしらがはみ出してしまうのだ。これでは格好が悪い。一回り大きな袋とすれば、中学で使っていたあのファンシーなやつだけど……クローゼットから引っ張り出したそのデザインに幾分不満を覚えながらも長ズボンを詰め込んだところで、バンバンと扉を叩く音に啓志は眉をひそめた。おい兄貴! さっさと風呂入らねえとすね毛抜くぞ! ――頭の上がらない妹の謎の脅迫によって、啓志は仕方なく部屋を出て行ったのである。
……そ、それから……?
今度は男子更衣室の真ん中で、啓志は途方に暮れていた。
確かに机の上にはあったはずだろ。出掛けに嫌でも目にしたはずだ。憂鬱すぎて袋は持ったのに隣の上着に気づきませんでしたとかありかよ。ないだろ。まじかよ今朝の俺。嘘だ嘘だと言ってくれ! ――そうしている間にも着替え終えたクラスメートは次々とグラウンドへ向かっていく。先行くぞー、と背中の方で声がした。それは勿論啓志に掛けられたものではない。
どうしたものか分からなかった。借りる? 誰に。さっきの「どっちも持ってきたけど」の人はとっくの昔に出て行ってしまった。ならばカッターシャツで挑む? 嫌だ絶対浮きたくない。先生に言ったら貸してもらえるのかな、でも今の状態でそんな恥かいたら相当まずくない? ……どうしよう。嫌な汗が噴出してきた。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう!
その時周りが静かなことに気づいて、啓志はさあっと青ざめた。
振り仰ぐ更衣室にはもう、自分を含めて三人しか残っていない。先程までの賑やかな話し声はグラウンドへ移ってしまった。もうすぐ授業が始まってしまう。――ふいに残り三人の一人と目が合って、反射的に啓志は体操服へと向き直ってしまった。向き直ったところで、上着が沸き上がっているなんて奇跡は起こっていないのだけれど。
百万キロ全力疾走したところでここまで高鳴らないだろうというほどに心臓が暴れ狂っている。にわかに腹痛が復活してきた。膝が震えて崩れ落ちそうだ。どうすればいい。グラウンドデビューとか言っていたのが、そのグラウンドにさえたどり着かないなんて。高校生活の終焉さえ啓志には見えはじめた。どうすればいい。ああ、あの時ちゃんと体操服をつめていれば。あの時妹が来なければ。朝憂鬱でなければ、あのメールを返していれば。相談できる友達がいれば。すぐにあの子に片方を借りていれば。渦巻く後悔の間にも刻々と時間は過ぎ去っていく。終わってしまう。さらば俺の高校生活。ああもうだめだ全部が全部ここで終わって――
「ねぇ」
ぴたり、と思考が停止した。
振り返る。それは、まったくもって空耳ではなく、他のだれかに向けられたのでもなく、確かに明らかに彼の背中へ問われたものだった。
先程一瞬目を合わせた一人の方が、ひくっと引き攣った笑顔を浮かべて啓志を見ている。
「……き、着替え、ない……の?」
――瞬間啓志を襲ったのは、初めて誰かに話し掛けられた感動でも、はたまた興奮でもなく。
この学校に来てから初めて感じた、震えるほどの安堵感であった。
やはり名前は分からないが、それは見覚えのある顔だった。
やや小柄で細身の体躯、染めているのかいないのか不明瞭な栗毛に、くりくりした目元が印象的。未だほとんど元の制服姿のまま、体操服上下を抱えている。それを泣きっ面で凝視している啓志に、相手は不審な表情を浮かべて、ひょいっと啓志の手元を覗き込んだ。
「あっ、もしかして体操服忘れたとか?」
「う、うん……」
「えっ最初の体育なのに」
「うぅ……」
その一言に本気で泣きかけている啓志に対して、栗毛は慌てた様子でわぁわぁ言って駆け寄って啓志の肩を叩いた。ごめんごめん大丈夫先生に言えばなんとかなるって平気だよこんなことで泣くなって泣くな! ――随分と馴れ馴れしいとかそんなことは、啓志にとってはもはやどうだって構わないことなのである。抱え込んできた破裂寸前の不安を誰かと共有できたことが、今の彼にとってどんなに嬉しかったことか。
ひとしきり啓志をなだめ終わると、栗毛はふいと更衣室の奥の方へ視線を移した。
「もしかしてそっちも?」
啓志も幾分落ち着いた気持ちで、その声の向けられた方に顔を向けた。
一番奥に、なんとも微妙な表情を浮かべた三人目が立っていた。
ともすれば不潔とも思われそうなぼさぼさの黒髪を除けば、高校一年生男子における平均的な体つきである。暗くてよくは見えないが、目つきはやんわり厳しめで威嚇する猫を思わせた。上は既に体操服に着替えているが、下は制服のまま。外れかけたベルトがぶら下がっている。
黒髪は気まずそうに二人の視線を受け取ると、こちらへ提示するように彼の体操ズボンを持ち上げた。――えっ、というのは栗毛の声だ。その体操ズボンは青みの紺、指定のモスグリーンではない。
一瞬の静寂。屋外で笛の音が聞こえた。
「あっ、あぁっ分かった! 間違えて中学校の体操服持ってきたんだー!」
――あるかよそんなこと!
啓志のツッコミは心の中に留まった。あろうことか栗毛はけらけらと笑い出した。黒髪はあからさまに不機嫌そうな顔色を浮かべているが否定こそせず、栗毛は彼の様子など全くもってお構いなしに笑い飛ばして、それから啓志に向けても笑顔で言った。
「なにこれ二人で一着じゃん!」
「うわぁ本当だよ」
笑っている場合ではないし初回の授業で二人も肝心の授業道具を忘れたとなればおそらく笑い事ではなかったが、最早啓志も笑うしかなかった。
暗い更衣室の中に二つの笑い声と、ひとつ長いため息がしばらく響いた。対してグラウンドの方が静かになりつつあることに、だから三人は気付かない。
ああおかしー、と楽しそうに呟いてから、栗毛はぱっと顔色を華やげた。
「ねぇねぇ、せっかくだしもうあれだから皆で体育サボろう」
え、と素っ頓狂な啓志の声に重なったのは黒髪の声である。
「お前もか?」
ようやく発された彼の声は、威圧感こそあれ低く落ち着いていて大人っぽい。啓志に発言する隙を与えない早さで、対して高く元気な栗毛の声が返した。
「うん俺も忘れた」
「持ってるじゃないか、体操服」
「あー、いやほら、俺体調悪いし」
「どこが」
「体育嫌いだし!」
満面の笑顔で言い放った栗毛は、すぐさま持ち合わせの体操服を袋の中へ突っ込んだ。
啓志は呆然として、ちらりと黒髪の方を伺った。怒っているのか困っているのか分からない表情で相手も啓志を見た。およそ、その時二人の考えはぴったり一致していたのだろう――俺達が栗毛の体操服借りれば全部丸く収まるんじゃね?
その時だった。
――無情にもチャイムが鳴り響く。四時間目、体育の授業が始まった。三人は一斉に、更衣室のドアの方向へ目を向けた。……遅刻確定。すなわち、啓志のグラウンドデビュー計画はこれにて幕を下ろしたのである。
よしサボろう! 皆でサボれば怖くない! 栗毛は心底愉快そうに黒髪の後ろへ回り込んで背中を押し、続いて啓志の腕もひん掴んだ。
「あっ――」
「おい――」
開け放たれた更衣室のドアの向こうから、体育教師らしき男と無数の生徒の怪訝な視線が、ほとんど制服の三人へと突き刺さった。
「さぁ行こう、めくるめく自由なイチ高ライフへ!」