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高ひき

冴えない高校生たちがワイワイ繰り広げる基本ほのぼのたまに鬱やんわり女性向け青春?ストーリー

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*ご注意ください
こちら一次創作小説を細々掲載するブログです。
高校生活日常モノで基本ほのぼのたまに鬱展開含みます。
やんわり女性向け要素がありますので苦手な方は撤退してください。
因みにポケモンは出てきません。

*最新更新分
2012・05・30 美術室のあの子-2 追記人物紹介欄もちょっと更新。ネタバレ含

追記より目次あらすじ、この作品についてと簡単な人物紹介とか用語とかのっけておきます。

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 ――すりガラスの向こうで、ひらりと影が動いた。

 その時彼の得た感覚は、何かオカルトめいたものに遭遇した時のソレに近い。ぞぞぞぉ、と寒いぼが立つ、とまではいかないまでも、ぎょっとして啓志は目を見張った。だって、さっき自分だって見たし、笠原だってあんなにまじまじ覗いていた。いくらすりガラス越しとはいえ、人影があれば気づかないほうが不自然だ。

 置きっぱなしの笠原の鞄の守りなんか忘れて、啓志は美術室入口に迫っていく。

 何らかの期待に胸が高鳴っている。誰かいるのだ。先ほどまで、笠原燈月がそこにいた時まではしんとしてなりをひそめていて、彼がいなくなり、教室の前に自分だけになった途端に、踊るように息吹始めた奇妙な『誰か』が。なぜこんな時に限って勇敢になれるかは自分でもかなり謎なのだけれど、啓志は引き戸の取っ手に手をかけてみて、エイヤッ、とそれを引いてみた――開いた。さっきまで、本当についさっきまでは、鍵が掛かってたはずなのに!


 異世界への扉を開けたみたいな高揚が、そして啓志を包み込んだ。


 ――ひらりと制服のスカートが舞う。長く、艶やかな黒髪が、薄ら明るい美術室の机の間を駆けていく。踊るようにターン、しなやかなステップ。爪の先から足のつま先まで、芸術品みたいに行き届いた繊細な動き。教室にたゆたう埃のきらめきまでも、一人きりの舞台を神秘的に演出している。

 時間は確かに動いていて、でも現実と言う奴は消え去ってしまったみたいだった。目を擦る、瞬きをする、そんな動きさえ憚られる。その一瞬一瞬のどこをカメラに収めても、どんな額縁にも引けを取らない至高の一枚となるだろう。冗談でも誇張でもなく、確かに啓志はそう思ったのだ。

 一歩、二歩と教室へ踏み入れた啓志の手を、するりとその前に滑り込んだ女子生徒の、白く細い手が受け取った。思わずどきっと心臓が鳴る。長いまつ毛の下の瞳が、啓志の手の甲から腕をなぞってその双眸へと、舐めるように視点を移した。

「……あなたはだれ?」

 そしてそう言った。よく響き、透明感のある女の子の声。それを紡ぐ、薄くしっとりとした唇。一点の穢れもないように見える頬。きっといくら踊ったところで、乱れることを知らない黒髪……。

 カ、カワイケイシ……、としどろもどろに答えると、謎の女子生徒は真っ黒な目で、啓志をじぃっと見つめ始めた。

 静かな時間だった。取られている啓志の右手は、汗ばんで、微かに震えてさえいた。何も言えず、啓志はこくりと唾をのむ。どこぞの運動部のランニングの掛け声や、カンカンと螺旋階段を下りてくる生徒たちの賑やかな談笑が、まるでテレビの向こうの出来事みたいに、遠く遠くに思われた。むしろ、現実からどこか別の場所へ精神的に迷い込んでいるのは、啓志そのものであったけれど。
 女子生徒はもう一方の手で、そっと啓志の手の甲を撫でる。

「あなた、イイ……背も高いし、顔も合格ラインに乗ってる。やりようによっては、舞台映えするかも……」
「……は、はい?」

 訳が分からず啓志が返すと、彼女はひとりでに微笑んだ。

 ……あれー? 鍵開いたのー? 遠からず聞こえた笠原の声が、唐突に急激に啓志を現実へと引き戻していく。誰か来た、と急に女子生徒は手を放し、啓志の脇をすり抜けて美術室を飛び出した。そして、きょとんとして戻ってきた燈月をスッとかわして、放課後の廊下を駆け抜けていく。
 それを見送り、完全に思考停止している啓志を見、笠原は目をぱちくりさせて、なに、どしたの? と啓志に問うた。

「い、今……」
「今?」
「……美術室に、妖精が……」

 彼女の去っていった廊下を恍惚として眺める啓志のそんな発言を、燈月は馬鹿にしなかったし、というか理解しようともせず軽く受け流して、へ、と彼の眺める方を向いた。そして、今しがた角を曲がって二人の視界から消えていった生徒の姿を視認する。

「あーあの子か、三橋(みつはし)さんじゃん」
「え!?」

 知り合いなの、と食いついてくる背の高い彼に、ちびの笠原はちょっとだけ身を引いた。

「知り合いってか、河合くんも知り合いだよ。だってうちのクラスだし」

 ……え。

 ――エエェーっ!?





 ……本当にいる。
 翌朝のホームルームの時点で、啓志はこれ以上ないほど浮き足立っていた。あんなにかわいい子が、うちのクラスにいたなんて……無論それは手を触られただの、見つめられただのという事件の後での補正のかかった視線ではあったけれど、それを抜きにしたって『三橋葵(みつはし あおい)』は美人であった。目鼻立ちはくっきりとしていて、長いストレートの黒髪も、ちょっと怖いくらいに真っ白な肌とか華奢な体つきとかも正直普通の生徒から抜きん出ているし、その陰のある表情なんかもうびっくりするほど男心をくすぐってくる。それの、誰も知らない美術室でのとっておきの姿を、俺は知っているんだぜ。そう思うと優越感やらなんやらの感情に襲われて、もちろん啓志は先生の話なんかちっとも聞かなくて、ホームルームが終わったことにさえ気づかない体たらくで、ぼけっとその窓際の席の娘を見つめていた。きりっとした表情のまま顔を下げ机の中へ手を入れて、次の授業の準備を始めるらしい葵から啓志が視線をようやっと外したのは、その視線の間に燈月の顔がドアップで入り込んできたからである。
 うわっ、と大げさなアクションで啓志はぴんと背筋を伸ばした。燈月は怪訝とした様子でそのだらしない啓志の表情を覗いてくる。

「なに? なんか河合くん、昨日の放課後から変じゃない?」

 そっそんなことないよぉ、と首をブンブン振りながら、啓志はやっぱり窓際の彼女が気になって横目でこっそりチラ見する。トイレにでも立ったのか、手ぶらで二人の席の横を通りかかった鈴鹿がそれを目撃し、啓志のチラ見した方を一瞥した。

「なー今日美術部見学リトライする? それとも別ンとこ行く? あっ鈴鹿くんも行こうやどっか見学ー」
「今日も塾だ」
「じゃー何曜日が空いてるんよー」
「……」

 鈴鹿は答えず、視線を降ろし――二人が会話を始めたのをいいことにまた視線をどこかへ飛ばし始めた啓志の方を見下ろした。その焦点は確かに、窓側へと固められている女子側の席へと飛んでいるのである。
 鈴鹿が啓志を見下ろしているので、笠原も啓志を見下ろした。

「……河合くん、なんか顔赤くない?」
「へっ!?」
「大丈夫?」

 熱でもあるのか、といった意味合いであった様子の笠原の空気の読めない発言に、啓志の顔の温度はいよいよ高くなっていく。湯上りみたいに火照っている啓志を前に、笠原はちょっと首を傾げた。その後ろで、鈴鹿は徐に窓側を向くと、フッ……、と、いやらしいほどキザな溜息の付き方をするのだ。

「……恋でもしたか……」

 それだけ言うと、鈴鹿はちょっとニヤリとしながら廊下の方へと歩いていく。

 ……、な。
 ――な、なんだそれ。なんだそれッ!

 うおぉまじかあああ誰々!? と小学生みたいに一人喜び始めた笠原をよそに、一言置いて去っていった悪魔の背中を目で追いながら、啓志は呆然と――いや、愕然と、顔面をオーバーヒートさせながら心臓の鼓動を聞いていた。ばくんばくん。ばくんばくん。手なんて当てなくたって感じられるくらいに脈打っている全身の血流が、啓志にそれを教えている。

 恋でもしたか。
 ――恋でもしたか!

 気づいてしまうと急に窓際が見れなくなって、興奮している燈月の前で啓志は小さくなって俯いた。恋でもしたか。あぁそうなのか。これなのか俺。生まれてこの方女の子は大好きで、女子に囲まれてると幸せで、うきうきしたけど、特定の誰かが気になるとかそういうことはなくて、あの子かわいいなあと思っていても、それはアイドルにするような憧れだったり、なんたってそんなの奥手な自分には手の届かない夢の国での出来事だって啓志はちゃんと知っていたから。それなのに、フラッシュバックするのは――空を舞い、踊る黒髪の合間に自分だけが見た、白いうなじ、鎖骨――自分の手を取り甲を撫ぜる、緻密なガラス細工みたいな彼女の指先――長いまつ毛、自分に向けられた黒曜石の瞳――自分のために言葉を紡いだ、あの麗しい唇。

 うわあ。

 知ってしまった。

 ばくばく高鳴る心臓は、とどまるところを知らないようだ。


 あぁそうか――恋でもしちゃったのか!

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「あっねぇ一年生、そこの一年生」
 ――何故だ。
「待ってよー君だって君、そこの背の高い君!」
 ――何故。全く解せない。何故分かってしまうんだ。
「君さぁ、部活何入るか決めたりしてる? 男子バレーとか興味ない? 背高いし向いてると思うよ? 今日の放課後、時間あったりする?」
 ――どうして見ず知らずの俺が一年だって確信もって話してくるんだコノヤロウ!
 鬼の剣幕で振り返った――つもりだった河合啓志は、目の前の体格のいい上級生ににへらと笑みを浮かべると、押し付けられた半ピラをされるがままに受け取ってしまった。


――――美術室のあの子


「そりゃあ、だって、河合くんいっつもキョロキョロしてるもん」
 疑問をぶつけるなり簡潔に答えを提示した笠原燈月に、啓志は掴んでいたウインナーをぽろりと落としてしまった。
「え、なんか関係ある? それ」
「あるよー」
「それくらい常に不安げな顔してれば、お前が一年なことくらい俺だって分かる」
 いつも黙々と箸を進める鈴鹿賢一までもに追撃されれば、返す言葉もない。確かに、と啓志は肩を落とした。……そうであれば俺はこの先、二年生になっても尚部活勧誘を受け続けるに違いない。
 入学してから五日目の昼、通常授業が始まってから数えても早くも三回目となる昼休憩。教室の真ん中最前列の賢一の席に椅子を寄せ、三人で昼飯を済ませることがなんとなく定例となり始めて、啓志は僅かにも日々の生活に安心感を覚えつつあった。なのにもかかわらず傍目には、自分は未だに挙動不審キャラを脱却できていないらしい。
 落胆気味に弁当へと目を落とす啓志の視界の中に、するりと人の手が入り込んだ。
「あっ」
 言う間に綺麗な焼き色の卵焼きは弁当箱から摘み出されて、自然な流れで右横の男の口の中へ放り込まれた。ちょっとォ、と抗議の声を上げても、笠原はニィと笑うばかりで取り合わない。その左の手のひらには、ここ三日代わり映えのしないメロンパンが握られている。
「んで、バレー部行くの?」
「あ、いや……誘い受けたのバレー部だけじゃなくてさ、実は」
「ほう?」笠原はからかうみたいに相槌を打つ。
「ハンドボールとかバドミントンとか……あとはバスケ」
「おぉっ、俺男バスだったよ、中学ン時」
 身を乗り出した笠原に某有名バスケ漫画のイラストがでーんと描かれたチラシを手渡すと、啓志はバレー部のそれへと目を落とした。確かに身長だけは高めであるとは言え、こんなにも気が弱そうで明らかに文系顔な自分の元にもこんなビラが舞い込んでくるもんだなぁ、と思うとなんだか妙な哀愁を感じる。クラスに馴染めるかどうかが啓志の中で最大で唯一の問題点だったのであって、どの部活に入るかだなんて浮かれたことは、そういえばあまり考えたこともなかった。
 イチ高ってバスケ強いんだっけ、という笠原の質問に答えられる者は、このメンバーの中にはいない。鈴鹿なんかチラシに見向きもせず、相も変わらず口だけもぐもぐ淡々と動かしている。
「笠原くんバスケ続けるの?」
「やだよ、あれめっちゃきついし。の割に身長伸びなかったし」
「あ、あぁ。なるほど……」
「河合くんはなんか部活入ろうと思ってた? てか、なんか入ろうと思ってる?」
 啓志は曖昧に笑って首をかしげた。
「帰宅部……」
 らしいな、とでも思ったのだろうか、鈴鹿がひとりでに口の端を上げたのが妙に腹立たしい。
「一応聞くけど、鈴鹿くんは?」
「週六で塾だ」
「お、おぉう」
 鈴鹿の即答にちょっと気圧されている笠原を尻目に、啓志は今日貰ったいくつかのチラシをぱらぱらと眺めてみる。書道。弓道。天文部っていうのはちょっと俺好みかも、でも活動してるんだろうか。あとは……吹奏楽。新入生歓迎行事の一環として行われた部活動紹介で煌びやかなステージを披露していた吹奏楽の女の子たちのことを、啓志は若干眩しい気持ちで思い出す。他にはどんなのがあったっけ。なぜかコント紛いのことをしていたラグビー部。なぜか整列して校歌斉唱して礼して帰った硬式野球部……。
「せっかくだし、今日どっか見学行かない?」
 暇だし、と笠原は付け加えた。鈴鹿は目を合わせることもなく無表情に首を振った。
「河合くんは?」
「え、う、うーん」俺みたいな冴えない男よりも、君には他に誘える人がいるのでは……?
「いこーよどうせ暇っしょー?」
「まぁ暇だけどさ」
「よし決まり! じゃあどこにしよっか」
 出会って幾ばくもない他人の放課後を『暇』と決めつける図々しさも、次々飛んでくる奔放な発言と人懐っこい笑顔をもって許さざるを得なくなってしまう。ちょっと反則だ、なぜか憎めないけどな、と啓志がその人柄を考察している間に、笠原は啓志の手元から例のチラシたちをひょいっと取り上げてしまった。それから、自分が見ていた分とそれらを混ぜ、裏返しにした。そしてそれを鈴鹿の前へと提示した。
「さぁ、鈴鹿くん一枚引くんだ」
 見学に行く部活をくじ引きで決めるらしい――まぁ別に特別興味がある部活があるわけではなかったからいいんだけど。紙の色や、インクの透ける感じで啓志にはどれがどの部活なのか一目瞭然なのであるが、今までチラシにノータッチだった鈴鹿は一瞬憮然とした表情を浮かべると、呆れた、という雰囲気を醸しながらも中から一枚選び抜いた。





 ――放課後。
 ホームルーム終了と同時に通学鞄を担いで颯爽と教室を出て行った鈴鹿賢一は置いといて、二人は彼のドローしたオレンジ色のチラシを手に見学へと向かうことにした。
 放課の初々しい余韻の残る廊下の真ん中を、二人はきょろきょろと視線を泳がせながら闊歩する。屋外の吹きっさらしの赤く錆びててちょっと怖い螺旋階段をとんとん降りる。目的の教室は同じ校舎の二階の、西側の一角にあるらしい。オレンジのチラシの情報だ。
 東西に伸びる南校舎の南側には(他と比べれば別段そうでもないのだけれど)中学校よりもうーんと広く感じるグラウンドがあって(それがAグラウンドで、北側にはBグラウンドまであるのだというのだから高校は凄い!)、いろんな服装をした生徒が駆け巡るその白けた黄土色の広がる向こうには、もくもくと山並みがせりあがっている。桜がきれいだ。それをよそ見していたから、突然立ち止まった笠原の背中に河合はぶつかりそうになった。
 くしゃっとした手元のオレンジの、カラフルに彩られた大きな見出しと、頭上に張り出す教室名を示すプレートとを見比べる。笠原はひとりでに呟いた。
「ここかぁ」
 美術室――そう書かれた教室の引き戸のすりガラスの向こうは、しかし、自然光だけに満ちているらしい薄暗い空間となっている。
「……今日やってないのかな?」
 ぽつりと呟くと、かもねぇ、と笠原も呑気に同意する。教室の中に、人影らしい動きは見えない。美術部の宣伝のビラの中にはイケメンのアニメキャラが描かれているだけで、活動日が限られている、と言った情報は何ひとつ示されていないが……。
 やってないのかぁ、惜しいなァ、と何度も口にしながら、そこの栗毛は誰もいない美術室をすりガラス越しにまじまじと覗き込んでいる。引き戸に手をかけてちょっと力を加えてみるも、鍵が掛かっているみたいだ。ああいうのあるんだろうね、ホラ、石膏の人間の像とかさ。とりとめのない彼のお話に、あーあるだろうねぇとなんとなく返しながら、啓志はAグラウンドを覗き込んだ。端っこのほうにバレーボールコートらしいものが見えて、そこに米粒みたいでも明らかに屈強そうな男どもがぽつぽつと集まってきている。
「あっ、来る時間早かったって可能性もあるか」
 いつの間にか横に並んでいた笠原の言葉に、そうかもね、と啓志はふんわり同意する。
 じゃーちょっと待ってみる? 俺いまのうちにトイレ行ってくるわー、と言って、返事も待たずに鞄をどしゃんとそこに下ろすと、燈月はちょろちょろと駆けてってしまった。北校舎(まだあまり立ち入る用事もないけれど)と比べるとかなりのぼろの南校舎では、階ごとにトイレの男女が分かれていて、でも確か男子トイレは二階と四階。すぐに帰ってくるだろう。
 バレー部らしき人々を見ながら、あぁいう仲間に自分がなってるとこは想像できなくて、でも女子バレーとふんだんに絡むことができるのであるならちょっと考えてみてもいいかも……と啓志はぼんやり妄想する。その甘すぎる考えは、けれども溜息と共に体の中から抜けてしまった。バレーやってるような気の強そうな女の子なんて、そもそも自分のことなんか相手にしてくれるはずもない。
 中学の時は美術部で、あんまり大きい声で言いたいことではないのだけれど、絵を描くのは好きだった。でもあの部活は女子ばっかりでなんだか陰湿な面もあって顧問と馬も合わなくて結局幽霊部員だったし、殆んど帰宅部と言って差し支えない。啓志はもう一度美術室を仰ぎ見る。流れに任せて見学に来たけど、あの鬱々とした雰囲気の中に、再び戻ってみる気はその時点ではなかったのだ。
 そこで、あれ、と啓志は目を凝らす。
 ――すりガラスの向こうで、ひらりと影が動いた。

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 準備体操が始まった。

 高校一年生春、初回の授業の最初の体操。先生に習って行う所作は、小中で慣れたものにもかかわらず恥ずかしげでぎこちない。恥ずかしげ、とは言うものの、遠慮がちな掛け声はげんなりするほど男臭く、初っ端なのに嫌気が差しそう。見学するならそちらがよかった女子のチームは、グラウンド東寄りの体育館に詰め込まれているようだ。

 その、記念すべき第一回目の準備体操を、グラウンド脇のひんやり冷たいベンチに腰掛けて、ジャージ(下)に学ラン(上)の啓志は、微妙に達観した複雑な心境で眺めていた。

 空は青く、照り付ける太陽は燦々と煌めき。生徒たちの真新しい体操服は爽やかに、白く目映(まばゆ)く輝いている。
 これは、あれではないか。世間一般に、青い春、とか呼ばれる奴では。セイシュンですよ。夜な夜な思い描いてきた、うら若き高校生諸君に等しく待ち受けるはずの、勿論俺にだって訪れる予定の、その。――それを芋ジャージ一本で(まぁ同じ体操服だけれど)、もってり腰掛けてじろじろ眺めている、十五の俺。いやなんか違うだろ。何か徹底的におかしいだろ。こんなの約束と違う。想像してた高校生じゃない。俺が送りたいのはさぁ、もっとこうなんだその、さぁ!
 ……まったくここ数日一体何してんだ俺。さっきまで達観していたはずが怒ったり嘆いたり放心したり、啓志は一人で忙しい。

 啓志の右手には完全に制服のままの栗毛が、左手の少し離れた位置に啓志とあべこべの恰好(ジャージと学ランの意味で)をした黒髪が同じように座っていた。
 右手に目をやると、栗毛は手にした鉛筆をA4用紙の上に走らせている。『10分ごとに授業の様子を細かく記入すること』、取り繕った理由で授業の見学を申し出た彼らに課されたのがその粗末なレポートであった。
 書き込まれた氏名欄をこっそり覗き見ようと試みた瞬間に、栗毛は隠すように胸に抱えるてしまった。

「あーラッキーだったなぁ。二人も体育サボり仲間ができるなんて」

 そう言ってにやりとする栗毛に啓志はあははと気の抜けた笑い声で返したが、黒髪の方は腕を組んで顔を向けもしなかった。

「……初回の授業なのに」

 黒髪の明らかに不満げな態度を全く気にする様子もなく栗毛は身を乗り出して、

「でもさ、体操服を中学んと間違えるのはさすがにないって! 面白いなー」
「あれは、俺じゃな……」
「えっ、じゃあ親に用意してもらってんの?」

 ますます左半身に感じる空気が冷たくなる。この栗毛、相手の様子を気にしないというより、むしろ神経を逆なでしようとしているんじゃないかとさえ啓志には思われた。生来啓志は割と人の目を気にするというか、気を使いすぎて心労を起こすようなタイプの人間だ。だからこういう、遠慮ないタイプとはあんまり馬が合わない。
 すると、黒髪の方もむっとして身を乗り出した。

「そんなことお前には関係ないだろ」

 だからこういう、すぐ攻撃的な態度を取るタイプも苦手である。

 つまり啓志は苦手な人種に両サイドを取られていた。これは非常に思わしくない展開だ。気まずいにもほどがある。サボり魔にいいように流されたことどころか、啓志はベンチの真ん中の腰掛けたあの何気ない選択さえ猛烈に後悔しはじめた。

 それはともかく、黒髪があからさますぎる険悪ムードを漂わせる一方で、栗毛は何の気もアリマセンといった相変わらずな表情で、抱えた下敷きの上の用紙にさらさらと何かを書き付けていく。

「いやー、羨ましいなぁって思ってね、そういうの」

 本当に何気なくなその声には、ひとかけらの悪意も感じられない。

 グラウンド上の生徒たちが列を作って移動していく。どうやらランニングが始まるらしかった。ランニング。ああ。走るのは嫌いだった。嫌いだけれども、畜生この野郎、青春バンザイ!

 啓志は黒髪の膝の上に乗せられた用紙の方も盗み見た。けれど、それにはまだ何ひとつ書き込まれていない。レポートの存在はアウトオブ眼中か、初回の授業を休んでしまったことがよっぽどショックらしい。

「ねぇ、体育好き?」

 え、と振り向くと、幾分座高の高い啓志を見上げるように栗毛が見ている。

「あ、うん……まま、まぁ、あんまり……ね」

 しどろもどろに答えると、どこか安心したように、栗毛はニッコリ笑顔を見せた。
 
 
 *
 
 
 栗毛は饒舌な男だった。
 饒舌というか賑やかというか、一体どこに膨大な会話ボックスを隠し持ってるのかと思わせる程に、ひたすらぺらぺら喋る喋る。上唇と下唇の紡ぎ出す言葉は歌うように踊るようにリズミカルでせわしなく、とどまるところを全く知らない。そうかと思えばこちらの発言する隙をしっかり与えていて、威圧感をこれっぽっちも感じない。これがプロフェッショナルと言うやつか、と啓志は授業開始五分で恐れ入ったが、特に感心させられたのは、その会話スキルの相手を選ばないところであった。

「ねぇねぇ鈴鹿(すずか)くん」

 こちらのぺちゃくちゃお喋りなんて聞こえない様子で始終むすっとしていた黒髪が、面倒そうにこちらを向いた。あぁ、そんくらい対人慣れしてれば、やっぱし名前、覚えれますよね。そこまで思って啓志は、ようやく黒髪の体操服に刻まれた苗字を発見したのである。なるほど、鈴鹿くん。よし覚えた。威圧的根暗黒髪の彼の名前は鈴鹿くん。

「……」返事くらいしろよ、鈴鹿くん。
「鈴鹿くんってさぁ、中学あそこでしょ、附属の」よもや出身校まで覚えていようとは!
「……それが何か」あ、でもそういやそうか、あの青紺の体操服、そういや附属の、そうだそうだ。
「いやー凄いじゃんあそこ超難関じゃん、ってことはめっちゃ頭いいんだよね鈴鹿くん、凄いなぁ凄いわ」

 ニコニコ話し掛ける栗毛くんを、鈴鹿くんは蔑んだ目で見下ろしている。
 そう言われてみれば、と啓志もぼんやり思い出し始めた。最初の最初、入学式直後の(ほとんどパニックを起こしていた、あの)自己紹介の時に、教室を一際ざわつかせた生徒がいる。真ん中右寄りの列の一番前の席の人で、出身校を言った途端、生徒も保護者も目を丸めたのだ。そうだ。確かに彼だった。中高どころか幼稚園から大学まで一貫の、超々エリート私立中学からこんな公立にやって来たという稀有な男は。

「鈴鹿賢一(けんいち)でしょ、印象的だったから覚えてた。話してみたいなーと思ってたんだよね。ねぇやっぱ、余裕なの? さっきの数学とか余裕だった?」

 更衣室で見せたような困惑した表情を浮かべる黒髪には、エフェクトが出そうなほど目を輝かせる栗毛のペースに飲まれまいとする抵抗の色が見え隠れする。

「……今日の分は、小学校でやった」
「小学校! ねぇ、小学校だって、どうしようレベルが違う」

 嬉しそうに話を振ってくる栗毛くんに、うんうんと啓志は頷いて返した。

 となると、あれだ。気になるのは、そんなエリート街道まっしぐらの附属生が、なぜこんな公立に進学してきたのか。よっぽど頭が悪かったのか(そんな風には見えないけれど)、はたまた虐められでもしたのか(ああ、どうしよう、そんな風にしか見えないよ!)。とにもかくにもそんなデリケートな話題に触れるわけにはいかないな、と啓志が思った矢先だった。

「なんで附属高校行かずにイチ高(ここ、宇城第一高校の愛称)に来たの?」

 栗毛がにこやかに言った。

 びく、と鈴鹿賢一の体が強張るのが、間近の啓志に伝わってきた。なんという予想通りの展開か、あぁ、こいつ、なんてことを! 鈴鹿またキレるぞ……内心怯えながら啓志は黒髪の方を見たが、そこにあったのは意外にも、取り繕ったような平生を浮かべた彼の姿。

「……親の都合、だ」

 あ、答え用意してたみたいだ、啓志はそう感じてから、そんなところに気づいてしまう自分がなんだか嫌になる。へー、と栗毛は間延びした相槌で返した。親の都合。とすると、金銭的な事情か何かか。

 さすがにやってしまったと思ったのか、それとも何も思っていないのか、栗毛は視線を落とすとカリカリと鉛筆を動かし始めた。

 ……気まずい。目線を背ける両サイドに肩身の狭い思いをしながら、啓志は縮こまっていた。体のサイズだけで言えば、啓志は二人より大きめである。けれどもいつの間にか、というかあっという間に、そうして小さくなっているのが彼の鉄板になりつつあった。完全に二人のターンだ。真ん中の彼など、もはや完全に路傍の石ころ。

 だけど、そんなふうに気を揉んでいる格好が彼らの関係性を上手く機能させていることに、この先啓志は、しばらく気づかず過ごしていく。

「……笠原(かさはら)」

「へ」
「笠原燈月(ひつき)。そうだろう」

 黒髪がぼそりと口を開いたのは、啓志がなんと会話を切り出そうか、思案を巡らせている最中だった。
 栗毛はくりくりの瞳を更に丸めて、それから喜々として身を乗り出した。

「合ってるよー、名前覚えててくれたんだ」
「……変な名前だから覚えた」

 酷いなぁ、と苦笑する栗毛――改めて笠原くん、笠原燈月くん、近頃はそういうのも珍しくないけど、確かに変わった名前だ――に、黒髪はそうは言っても少し得意げな顔を見せた。

 自分よりコミュニケーションが不得手だと思っていた人が、自分の知らない人間の名前を知っていたことに、啓志は失望にも似た落胆を覚える。皆、凄いなぁ、思わず呟いてしまった独り言は、悪いことに両サイドの耳に届いてしまったようだった。

「凄い? 何が」
「あーランニングのペース? 確かにあれは凄いね、時間も長いし」

 一人視線がグラウンドを向いている栗毛をよそに、うん、と啓志は頭を掻いた。

「人の名前ちゃんと覚えてるのとか」
「……? 何が凄いんだ」
「えっ、鈴鹿くんはともかく、俺の名前知らなかったの、河合くん」

 啓志は反射的に顔を上げ、目を見開いた――こんな、こんな地味糞な俺の名まで、まさか覚えていようとは!

「う、うん……というか……あの」
「えぇっまじかー! それはさすがに、えーっ凹むなぁそりゃあまあ俺チビだし河合くん背高いから視界に入らないかもしれないけどでもさすがにそれは――」
「俺の名前も覚えてくれてたんだ……あの……」

 ありがとう、とよく考えればまったくもって礼なんか言う必要もないのに礼を言いそうになった矢先、あったり前じゃーん、とちょっと怒ったような栗毛の声が返ってきた。

「だって俺、河合くんの前の席だよ?」


 ……え?

 その心の声は、どうやら口からも漏れてしまったようだった。え、と栗毛も口走った。黒髪まで、まじかよ、というような怪訝な視線を送ってきた。

 そう、いえ、ば……? 記憶の糸を、一本二本手繰っていく。前の席。入学式が始まる前に間近に集まり騒いでいた、目の前の席のあの連中。二日目の帰りのホームルーム、先生の話の最中に、二つ前の奴とこっそりアドレス交換していた男子生徒。思い出せ。その顔。確かに前の学ランは小さくて、黒板は見やすかった気がするが、その男、目の前の席の、顔……


「……そうだっけ?」
「顔も覚えてられてなかったか……」

 肩を落とすというわざとらしいアクション付きで、栗毛はがっかりして見せた。ゴメン、と啓志は手を合わせた――確かに啓志は今の今まで、友人を作る努力と言うのを、何一つとしてしてこなかったのであった。
 なんという自業自得か。これは反省せざるを得ない。『どんより』感を醸し始めた啓志を見かねて、気にすんな、と栗毛はばんばん背中を叩いた。黒髪は鼻で笑って、ゆったりと背もたれに寄り掛かった。

「妙に挙動不審なやつだと思ってたが、通りで」
「ハハハ、言ってやんなってぇ」
「いやだってその……俺……ごめんほんとごめん」
「いやいやもういいって、俺、笠原燈月ね。一年一組出席番号五番『の方』の笠原です、覚えてね!」
「うん、俺、えっと河合」
「啓志でしょ、知ってる」
「う、うん……ごめん……」

 ハッハッハと栗毛が笑うのがグラウンドに遠く響いて、ランニングから戻ってきた生徒数人が顔を向けた。生ぬるい春の風が吹いて、もうもうと砂煙が立った。隣で黒髪がくしゃみをした。

 尻をつけた時には冷たかったベンチが、陽気に誘われたのか随分温まってきた。自責と後悔、そしてこれから、もう少し頑張ってみなくちゃな、というささやかな決心を固め始めた啓志は、何気なく自分の膝へと視線を落として――あぁっ、と素っ頓狂な声を上げた。

 そこには真っ白なレポート用紙があった。

 先生の話を聞いている生徒の数人がまたしても視線を投げかけてくる。なんだなんだ、と顔を向ける栗毛、おそらく同じことに勘付いてしまったらしい黒髪がさぁっと青ざめる真ん中で、啓志は校舎に掛けられた大きな時計へ目をやった。12時30分。授業はもう、後半戦に差し掛かっている。
 黒髪がごくりと唾を呑み、どうしよう、と啓志が口走りかけた矢先に――さっ、と二人の前へとA4用紙が差し出された。

「見る?」

 ニカッと笑みを浮かべた栗毛の手の中のレポートには、そこまでの10分毎の授業内容がちゃっかり記されていたのであった。
 
 

 
 
 勇気を出せ、俺。

 啓志は小さく念じてみる。更衣室に向かうさなか、奮い立たせていた奴だ。ハプニングがあって一度は萎んでしまったけれど、あのとき貯金を崩さなかった分、今ならきっと、行ける。

 四時間目の体育が終わり、体育担当の先生からやんわりお咎めを受けて、三人はグラウンドを後にした。栗毛、改め笠原燈月は更衣室に戻った瞬間に仲間たちに取り囲まれ囃されて、ワイワイ言いながら出て行った。黒髪改め鈴鹿賢一はと言うと、いつの間にやら消えていた。かくして、下半身を着替え終わった段階で啓志はまた独りになり、結局行きしと同じくとぼとぼと階段を上ったのである。

 教室に戻ってみると二人はいた。財布やらなんやらを握りしめた生徒たちが嬉々として一組を飛び出していく中、鈴鹿賢一は廊下側から三行目最前列、教卓の真ん前の席にちょんと腰かけていて、傍の席の笠原燈月は難しい顔で財布の中身を睨んでいた。啓志は、ある意味で幸運を呼んだかもしれないファンシーな体操服入れを机に掛け、次いで鞄から弁当の包みを取り出した。

 ……勇気を出せ。

 息を吸い、吐いた。もう一度息を吸った。いつの間に凍えてしまったのか、指の先が震えている。なのに顔は火照って熱い。気分が悪くて食欲はマイナスだ。恐怖はあった。むしろ、恐怖しかないと言えるかも。
 けれど分かっている。ここで踏ん張らなければ、一歩踏み出さなければ、また全ては元のまま。何も変わらないまま今日を終え、また変わらない朝が来るのを待つだけだ。そんなのはもう、ごめんだ。

「笠原、くん」

 ん、と目の前の栗毛が降り向いた。そこに切羽詰まった表情で仁王立ちしている男へと、不思議そうに視線を向けた。その手の中の弁当箱へと、一瞬ちらりと視線を落とし、それからもう一度目を合わせてくる。若干困惑したようなその瞳が、啓志には随分痛かった。

「あの、昼飯……」
「おい燈月、学食行くぞー」

 被さるような声があって、二人はそちらへ振り向いた。数人の見覚えのある連中が、問答しているこちらをじろじろ眺めている。燈月はくるりと顔を戻した。あ、えっと、と啓志は言葉を濁した。

「いや、その……何でもないんだ。ごめん」

(……やっぱり、自分なんかに声をかけられるのは、迷惑な話だろう)

 啓志は笠原へ苦笑を向けた。笠原はそれをまじまじと見上げた。燈月ィ、と誰かが二回目の声を上げると、笠原はぱっと振り返った。

 そして、右手をぱたぱた振った。

「わりぃ! 俺メシ持ってるから教室で食べるわ!」

 唖然として、啓志は栗毛の横顔を見た。

 おーうと返事をして彼の友人たちは去っていった。というわけで昼一緒に食おうぜー、笠原は啓志にそう言って、ニヤニヤと笑った。え、あの、で、でも、あの人達、啓志はそんなふうにどもって、いやいやぁと笠原はぷらぷら財布を振った。

「俺金無いからさぁ、学食行っちゃうとつい金使いたくなっちゃって困るんだよね。せっかくパン持ってきてるのに」

 だから一緒に食ってくれよー弁当持ってきてる人ーとぱんぱん笠原は肩を叩いて――あぁなんだろう、その時あらぬことに河合啓志は、胸の高鳴りを感じたのだ!

 スクールバッグの中から発言通りのメロンパンを掴みあげ、イスを前後ひっくり返し啓志の机に向かい合おうとした笠原は、途中でそれを取りやめた。そして教室前方へと目をやった。誘うか、と彼は再びにやついた。うんと啓志は頷いた。

「鈴鹿くんも弁当男子ー?」

 そんな風に笠原は言った。教室に残っていた男女が数人振り向いて、それからしばらくあって、当人は渋々といった様子でようやくこちらを向いた。机の上には紛うことなく弁当箱が乗せてあって、蓋の開封直前にまで達していた。
 鈴鹿は警戒するように一瞬目を細めて、その後何も言わずに黒板側へと直ってしまう。

「あ、あれ?」
「なんだよあいつー、よし行くか」
「えっ、えぇっ!?」

 笠原はすたすた歩いていく。ボサボサ黒髪の、その動かない背中へ向かって。

 安堵と高揚とがないまぜになった感情を持て余して、啓志は口をぱくぱくさせて、それから弁当を抱え直した。確かにこれは、挙動不審と言われても仕方ない。けれど、そうと言われても余りあるほどの大きな大きな期待感が、中に膨らみ始めていた。

 教室の前方で二人は何やら言葉を交わして、笠原は笑って、鈴鹿は不満げに眉根を寄せた。一人がこちらに手を振った。啓志はもう一度頷いた。


 かくして、河合啓志の高校生活は、ようやく幕を開けたのであった。

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 ――遡ること十二時間。


 自室の学習机の前で、啓志は途方に暮れていた。

 宇城第一高校、俗に『ウシイチ』または『イチ高』指定の体操服には、夏用と冬用とがある。白地にラインの入った半袖シャツと半ズボン、対してジッパーの着いた上着と長ズボン。

 開封したばかりのそれらをひとまず机の上に並べてみて、啓志はうーんと唸っていた。
 はたしてどちらを持っていくべきか。下についてはまあとりあえず長い方として、上はどうする? 用意したシックな手提げにモスグリーンを詰め込みながら、もしやホームルームで聞き逃したのはこのことではなかったろうかと啓志は感じ始めていた。万一そうであって、ここで選択を誤ったとすれば、啓志は一人違う格好で授業を受けることになる。なんとしてもそれだけは避けたい。当然のように目立つのは嫌いだった。
 しばらく立ち尽くした後、ふと名案が思い浮かんだ。そうだ、両方持っていけばいい。啓志は思わず笑顔になった。こんな簡単なこと、どうして気づかなかったんだろう。
 しかしそれには問題があった。どちらも詰めこんでみると、どうやってもどこかしらがはみ出してしまうのだ。これでは格好が悪い。一回り大きな袋とすれば、中学で使っていたあのファンシーなやつだけど……クローゼットから引っ張り出したそのデザインに幾分不満を覚えながらも長ズボンを詰め込んだところで、バンバンと扉を叩く音に啓志は眉をひそめた。おい兄貴! さっさと風呂入らねえとすね毛抜くぞ! ――頭の上がらない妹の謎の脅迫によって、啓志は仕方なく部屋を出て行ったのである。

 

 ……そ、それから……?

 今度は男子更衣室の真ん中で、啓志は途方に暮れていた。
 確かに机の上にはあったはずだろ。出掛けに嫌でも目にしたはずだ。憂鬱すぎて袋は持ったのに隣の上着に気づきませんでしたとかありかよ。ないだろ。まじかよ今朝の俺。嘘だ嘘だと言ってくれ! ――そうしている間にも着替え終えたクラスメートは次々とグラウンドへ向かっていく。先行くぞー、と背中の方で声がした。それは勿論啓志に掛けられたものではない。

 どうしたものか分からなかった。借りる? 誰に。さっきの「どっちも持ってきたけど」の人はとっくの昔に出て行ってしまった。ならばカッターシャツで挑む? 嫌だ絶対浮きたくない。先生に言ったら貸してもらえるのかな、でも今の状態でそんな恥かいたら相当まずくない? ……どうしよう。嫌な汗が噴出してきた。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう!

 その時周りが静かなことに気づいて、啓志はさあっと青ざめた。
 振り仰ぐ更衣室にはもう、自分を含めて三人しか残っていない。先程までの賑やかな話し声はグラウンドへ移ってしまった。もうすぐ授業が始まってしまう。――ふいに残り三人の一人と目が合って、反射的に啓志は体操服へと向き直ってしまった。向き直ったところで、上着が沸き上がっているなんて奇跡は起こっていないのだけれど。

 百万キロ全力疾走したところでここまで高鳴らないだろうというほどに心臓が暴れ狂っている。にわかに腹痛が復活してきた。膝が震えて崩れ落ちそうだ。どうすればいい。グラウンドデビューとか言っていたのが、そのグラウンドにさえたどり着かないなんて。高校生活の終焉さえ啓志には見えはじめた。どうすればいい。ああ、あの時ちゃんと体操服をつめていれば。あの時妹が来なければ。朝憂鬱でなければ、あのメールを返していれば。相談できる友達がいれば。すぐにあの子に片方を借りていれば。渦巻く後悔の間にも刻々と時間は過ぎ去っていく。終わってしまう。さらば俺の高校生活。ああもうだめだ全部が全部ここで終わって――


「ねぇ」


 ぴたり、と思考が停止した。
 振り返る。それは、まったくもって空耳ではなく、他のだれかに向けられたのでもなく、確かに明らかに彼の背中へ問われたものだった。

 先程一瞬目を合わせた一人の方が、ひくっと引き攣った笑顔を浮かべて啓志を見ている。


「……き、着替え、ない……の?」


 ――瞬間啓志を襲ったのは、初めて誰かに話し掛けられた感動でも、はたまた興奮でもなく。
 この学校に来てから初めて感じた、震えるほどの安堵感であった。

 やはり名前は分からないが、それは見覚えのある顔だった。
 やや小柄で細身の体躯、染めているのかいないのか不明瞭な栗毛に、くりくりした目元が印象的。未だほとんど元の制服姿のまま、体操服上下を抱えている。それを泣きっ面で凝視している啓志に、相手は不審な表情を浮かべて、ひょいっと啓志の手元を覗き込んだ。

「あっ、もしかして体操服忘れたとか?」
「う、うん……」
「えっ最初の体育なのに」
「うぅ……」

 その一言に本気で泣きかけている啓志に対して、栗毛は慌てた様子でわぁわぁ言って駆け寄って啓志の肩を叩いた。ごめんごめん大丈夫先生に言えばなんとかなるって平気だよこんなことで泣くなって泣くな! ――随分と馴れ馴れしいとかそんなことは、啓志にとってはもはやどうだって構わないことなのである。抱え込んできた破裂寸前の不安を誰かと共有できたことが、今の彼にとってどんなに嬉しかったことか。
 ひとしきり啓志をなだめ終わると、栗毛はふいと更衣室の奥の方へ視線を移した。

「もしかしてそっちも?」

 啓志も幾分落ち着いた気持ちで、その声の向けられた方に顔を向けた。
 一番奥に、なんとも微妙な表情を浮かべた三人目が立っていた。
 ともすれば不潔とも思われそうなぼさぼさの黒髪を除けば、高校一年生男子における平均的な体つきである。暗くてよくは見えないが、目つきはやんわり厳しめで威嚇する猫を思わせた。上は既に体操服に着替えているが、下は制服のまま。外れかけたベルトがぶら下がっている。
 黒髪は気まずそうに二人の視線を受け取ると、こちらへ提示するように彼の体操ズボンを持ち上げた。――えっ、というのは栗毛の声だ。その体操ズボンは青みの紺、指定のモスグリーンではない。
 一瞬の静寂。屋外で笛の音が聞こえた。

「あっ、あぁっ分かった! 間違えて中学校の体操服持ってきたんだー!」

 ――あるかよそんなこと!
 啓志のツッコミは心の中に留まった。あろうことか栗毛はけらけらと笑い出した。黒髪はあからさまに不機嫌そうな顔色を浮かべているが否定こそせず、栗毛は彼の様子など全くもってお構いなしに笑い飛ばして、それから啓志に向けても笑顔で言った。

「なにこれ二人で一着じゃん!」
「うわぁ本当だよ」

 笑っている場合ではないし初回の授業で二人も肝心の授業道具を忘れたとなればおそらく笑い事ではなかったが、最早啓志も笑うしかなかった。
 暗い更衣室の中に二つの笑い声と、ひとつ長いため息がしばらく響いた。対してグラウンドの方が静かになりつつあることに、だから三人は気付かない。

 ああおかしー、と楽しそうに呟いてから、栗毛はぱっと顔色を華やげた。

「ねぇねぇ、せっかくだしもうあれだから皆で体育サボろう」

 え、と素っ頓狂な啓志の声に重なったのは黒髪の声である。

「お前もか?」

 ようやく発された彼の声は、威圧感こそあれ低く落ち着いていて大人っぽい。啓志に発言する隙を与えない早さで、対して高く元気な栗毛の声が返した。

「うん俺も忘れた」
「持ってるじゃないか、体操服」
「あー、いやほら、俺体調悪いし」
「どこが」
「体育嫌いだし!」

 満面の笑顔で言い放った栗毛は、すぐさま持ち合わせの体操服を袋の中へ突っ込んだ。
 啓志は呆然として、ちらりと黒髪の方を伺った。怒っているのか困っているのか分からない表情で相手も啓志を見た。およそ、その時二人の考えはぴったり一致していたのだろう――俺達が栗毛の体操服借りれば全部丸く収まるんじゃね?

 その時だった。
 ――無情にもチャイムが鳴り響く。四時間目、体育の授業が始まった。三人は一斉に、更衣室のドアの方向へ目を向けた。……遅刻確定。すなわち、啓志のグラウンドデビュー計画はこれにて幕を下ろしたのである。
 よしサボろう! 皆でサボれば怖くない! 栗毛は心底愉快そうに黒髪の後ろへ回り込んで背中を押し、続いて啓志の腕もひん掴んだ。


「あっ――」
「おい――」

 開け放たれた更衣室のドアの向こうから、体育教師らしき男と無数の生徒の怪訝な視線が、ほとんど制服の三人へと突き刺さった。

 

「さぁ行こう、めくるめく自由なイチ高ライフへ!」

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