高ひき
冴えない高校生たちがワイワイ繰り広げる基本ほのぼのたまに鬱やんわり女性向け青春?ストーリー
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準備体操が始まった。
高校一年生春、初回の授業の最初の体操。先生に習って行う所作は、小中で慣れたものにもかかわらず恥ずかしげでぎこちない。恥ずかしげ、とは言うものの、遠慮がちな掛け声はげんなりするほど男臭く、初っ端なのに嫌気が差しそう。見学するならそちらがよかった女子のチームは、グラウンド東寄りの体育館に詰め込まれているようだ。
その、記念すべき第一回目の準備体操を、グラウンド脇のひんやり冷たいベンチに腰掛けて、ジャージ(下)に学ラン(上)の啓志は、微妙に達観した複雑な心境で眺めていた。
空は青く、照り付ける太陽は燦々と煌めき。生徒たちの真新しい体操服は爽やかに、白く目映(まばゆ)く輝いている。
これは、あれではないか。世間一般に、青い春、とか呼ばれる奴では。セイシュンですよ。夜な夜な思い描いてきた、うら若き高校生諸君に等しく待ち受けるはずの、勿論俺にだって訪れる予定の、その。――それを芋ジャージ一本で(まぁ同じ体操服だけれど)、もってり腰掛けてじろじろ眺めている、十五の俺。いやなんか違うだろ。何か徹底的におかしいだろ。こんなの約束と違う。想像してた高校生じゃない。俺が送りたいのはさぁ、もっとこうなんだその、さぁ!
……まったくここ数日一体何してんだ俺。さっきまで達観していたはずが怒ったり嘆いたり放心したり、啓志は一人で忙しい。
啓志の右手には完全に制服のままの栗毛が、左手の少し離れた位置に啓志とあべこべの恰好(ジャージと学ランの意味で)をした黒髪が同じように座っていた。
右手に目をやると、栗毛は手にした鉛筆をA4用紙の上に走らせている。『10分ごとに授業の様子を細かく記入すること』、取り繕った理由で授業の見学を申し出た彼らに課されたのがその粗末なレポートであった。
書き込まれた氏名欄をこっそり覗き見ようと試みた瞬間に、栗毛は隠すように胸に抱えるてしまった。
「あーラッキーだったなぁ。二人も体育サボり仲間ができるなんて」
そう言ってにやりとする栗毛に啓志はあははと気の抜けた笑い声で返したが、黒髪の方は腕を組んで顔を向けもしなかった。
「……初回の授業なのに」
黒髪の明らかに不満げな態度を全く気にする様子もなく栗毛は身を乗り出して、
「でもさ、体操服を中学んと間違えるのはさすがにないって! 面白いなー」
「あれは、俺じゃな……」
「えっ、じゃあ親に用意してもらってんの?」
ますます左半身に感じる空気が冷たくなる。この栗毛、相手の様子を気にしないというより、むしろ神経を逆なでしようとしているんじゃないかとさえ啓志には思われた。生来啓志は割と人の目を気にするというか、気を使いすぎて心労を起こすようなタイプの人間だ。だからこういう、遠慮ないタイプとはあんまり馬が合わない。
すると、黒髪の方もむっとして身を乗り出した。
「そんなことお前には関係ないだろ」
だからこういう、すぐ攻撃的な態度を取るタイプも苦手である。
つまり啓志は苦手な人種に両サイドを取られていた。これは非常に思わしくない展開だ。気まずいにもほどがある。サボり魔にいいように流されたことどころか、啓志はベンチの真ん中の腰掛けたあの何気ない選択さえ猛烈に後悔しはじめた。
それはともかく、黒髪があからさますぎる険悪ムードを漂わせる一方で、栗毛は何の気もアリマセンといった相変わらずな表情で、抱えた下敷きの上の用紙にさらさらと何かを書き付けていく。
「いやー、羨ましいなぁって思ってね、そういうの」
本当に何気なくなその声には、ひとかけらの悪意も感じられない。
グラウンド上の生徒たちが列を作って移動していく。どうやらランニングが始まるらしかった。ランニング。ああ。走るのは嫌いだった。嫌いだけれども、畜生この野郎、青春バンザイ!
啓志は黒髪の膝の上に乗せられた用紙の方も盗み見た。けれど、それにはまだ何ひとつ書き込まれていない。レポートの存在はアウトオブ眼中か、初回の授業を休んでしまったことがよっぽどショックらしい。
「ねぇ、体育好き?」
え、と振り向くと、幾分座高の高い啓志を見上げるように栗毛が見ている。
「あ、うん……まま、まぁ、あんまり……ね」
しどろもどろに答えると、どこか安心したように、栗毛はニッコリ笑顔を見せた。
*
栗毛は饒舌な男だった。
饒舌というか賑やかというか、一体どこに膨大な会話ボックスを隠し持ってるのかと思わせる程に、ひたすらぺらぺら喋る喋る。上唇と下唇の紡ぎ出す言葉は歌うように踊るようにリズミカルでせわしなく、とどまるところを全く知らない。そうかと思えばこちらの発言する隙をしっかり与えていて、威圧感をこれっぽっちも感じない。これがプロフェッショナルと言うやつか、と啓志は授業開始五分で恐れ入ったが、特に感心させられたのは、その会話スキルの相手を選ばないところであった。
「ねぇねぇ鈴鹿(すずか)くん」
こちらのぺちゃくちゃお喋りなんて聞こえない様子で始終むすっとしていた黒髪が、面倒そうにこちらを向いた。あぁ、そんくらい対人慣れしてれば、やっぱし名前、覚えれますよね。そこまで思って啓志は、ようやく黒髪の体操服に刻まれた苗字を発見したのである。なるほど、鈴鹿くん。よし覚えた。威圧的根暗黒髪の彼の名前は鈴鹿くん。
「……」返事くらいしろよ、鈴鹿くん。
「鈴鹿くんってさぁ、中学あそこでしょ、附属の」よもや出身校まで覚えていようとは!
「……それが何か」あ、でもそういやそうか、あの青紺の体操服、そういや附属の、そうだそうだ。
「いやー凄いじゃんあそこ超難関じゃん、ってことはめっちゃ頭いいんだよね鈴鹿くん、凄いなぁ凄いわ」
ニコニコ話し掛ける栗毛くんを、鈴鹿くんは蔑んだ目で見下ろしている。
そう言われてみれば、と啓志もぼんやり思い出し始めた。最初の最初、入学式直後の(ほとんどパニックを起こしていた、あの)自己紹介の時に、教室を一際ざわつかせた生徒がいる。真ん中右寄りの列の一番前の席の人で、出身校を言った途端、生徒も保護者も目を丸めたのだ。そうだ。確かに彼だった。中高どころか幼稚園から大学まで一貫の、超々エリート私立中学からこんな公立にやって来たという稀有な男は。
「鈴鹿賢一(けんいち)でしょ、印象的だったから覚えてた。話してみたいなーと思ってたんだよね。ねぇやっぱ、余裕なの? さっきの数学とか余裕だった?」
更衣室で見せたような困惑した表情を浮かべる黒髪には、エフェクトが出そうなほど目を輝かせる栗毛のペースに飲まれまいとする抵抗の色が見え隠れする。
「……今日の分は、小学校でやった」
「小学校! ねぇ、小学校だって、どうしようレベルが違う」
嬉しそうに話を振ってくる栗毛くんに、うんうんと啓志は頷いて返した。
となると、あれだ。気になるのは、そんなエリート街道まっしぐらの附属生が、なぜこんな公立に進学してきたのか。よっぽど頭が悪かったのか(そんな風には見えないけれど)、はたまた虐められでもしたのか(ああ、どうしよう、そんな風にしか見えないよ!)。とにもかくにもそんなデリケートな話題に触れるわけにはいかないな、と啓志が思った矢先だった。
「なんで附属高校行かずにイチ高(ここ、宇城第一高校の愛称)に来たの?」
栗毛がにこやかに言った。
びく、と鈴鹿賢一の体が強張るのが、間近の啓志に伝わってきた。なんという予想通りの展開か、あぁ、こいつ、なんてことを! 鈴鹿またキレるぞ……内心怯えながら啓志は黒髪の方を見たが、そこにあったのは意外にも、取り繕ったような平生を浮かべた彼の姿。
「……親の都合、だ」
あ、答え用意してたみたいだ、啓志はそう感じてから、そんなところに気づいてしまう自分がなんだか嫌になる。へー、と栗毛は間延びした相槌で返した。親の都合。とすると、金銭的な事情か何かか。
さすがにやってしまったと思ったのか、それとも何も思っていないのか、栗毛は視線を落とすとカリカリと鉛筆を動かし始めた。
……気まずい。目線を背ける両サイドに肩身の狭い思いをしながら、啓志は縮こまっていた。体のサイズだけで言えば、啓志は二人より大きめである。けれどもいつの間にか、というかあっという間に、そうして小さくなっているのが彼の鉄板になりつつあった。完全に二人のターンだ。真ん中の彼など、もはや完全に路傍の石ころ。
だけど、そんなふうに気を揉んでいる格好が彼らの関係性を上手く機能させていることに、この先啓志は、しばらく気づかず過ごしていく。
「……笠原(かさはら)」
「へ」
「笠原燈月(ひつき)。そうだろう」
黒髪がぼそりと口を開いたのは、啓志がなんと会話を切り出そうか、思案を巡らせている最中だった。
栗毛はくりくりの瞳を更に丸めて、それから喜々として身を乗り出した。
「合ってるよー、名前覚えててくれたんだ」
「……変な名前だから覚えた」
酷いなぁ、と苦笑する栗毛――改めて笠原くん、笠原燈月くん、近頃はそういうのも珍しくないけど、確かに変わった名前だ――に、黒髪はそうは言っても少し得意げな顔を見せた。
自分よりコミュニケーションが不得手だと思っていた人が、自分の知らない人間の名前を知っていたことに、啓志は失望にも似た落胆を覚える。皆、凄いなぁ、思わず呟いてしまった独り言は、悪いことに両サイドの耳に届いてしまったようだった。
「凄い? 何が」
「あーランニングのペース? 確かにあれは凄いね、時間も長いし」
一人視線がグラウンドを向いている栗毛をよそに、うん、と啓志は頭を掻いた。
「人の名前ちゃんと覚えてるのとか」
「……? 何が凄いんだ」
「えっ、鈴鹿くんはともかく、俺の名前知らなかったの、河合くん」
啓志は反射的に顔を上げ、目を見開いた――こんな、こんな地味糞な俺の名まで、まさか覚えていようとは!
「う、うん……というか……あの」
「えぇっまじかー! それはさすがに、えーっ凹むなぁそりゃあまあ俺チビだし河合くん背高いから視界に入らないかもしれないけどでもさすがにそれは――」
「俺の名前も覚えてくれてたんだ……あの……」
ありがとう、とよく考えればまったくもって礼なんか言う必要もないのに礼を言いそうになった矢先、あったり前じゃーん、とちょっと怒ったような栗毛の声が返ってきた。
「だって俺、河合くんの前の席だよ?」
……え?
その心の声は、どうやら口からも漏れてしまったようだった。え、と栗毛も口走った。黒髪まで、まじかよ、というような怪訝な視線を送ってきた。
そう、いえ、ば……? 記憶の糸を、一本二本手繰っていく。前の席。入学式が始まる前に間近に集まり騒いでいた、目の前の席のあの連中。二日目の帰りのホームルーム、先生の話の最中に、二つ前の奴とこっそりアドレス交換していた男子生徒。思い出せ。その顔。確かに前の学ランは小さくて、黒板は見やすかった気がするが、その男、目の前の席の、顔……
「……そうだっけ?」
「顔も覚えてられてなかったか……」
肩を落とすというわざとらしいアクション付きで、栗毛はがっかりして見せた。ゴメン、と啓志は手を合わせた――確かに啓志は今の今まで、友人を作る努力と言うのを、何一つとしてしてこなかったのであった。
なんという自業自得か。これは反省せざるを得ない。『どんより』感を醸し始めた啓志を見かねて、気にすんな、と栗毛はばんばん背中を叩いた。黒髪は鼻で笑って、ゆったりと背もたれに寄り掛かった。
「妙に挙動不審なやつだと思ってたが、通りで」
「ハハハ、言ってやんなってぇ」
「いやだってその……俺……ごめんほんとごめん」
「いやいやもういいって、俺、笠原燈月ね。一年一組出席番号五番『の方』の笠原です、覚えてね!」
「うん、俺、えっと河合」
「啓志でしょ、知ってる」
「う、うん……ごめん……」
ハッハッハと栗毛が笑うのがグラウンドに遠く響いて、ランニングから戻ってきた生徒数人が顔を向けた。生ぬるい春の風が吹いて、もうもうと砂煙が立った。隣で黒髪がくしゃみをした。
尻をつけた時には冷たかったベンチが、陽気に誘われたのか随分温まってきた。自責と後悔、そしてこれから、もう少し頑張ってみなくちゃな、というささやかな決心を固め始めた啓志は、何気なく自分の膝へと視線を落として――あぁっ、と素っ頓狂な声を上げた。
そこには真っ白なレポート用紙があった。
先生の話を聞いている生徒の数人がまたしても視線を投げかけてくる。なんだなんだ、と顔を向ける栗毛、おそらく同じことに勘付いてしまったらしい黒髪がさぁっと青ざめる真ん中で、啓志は校舎に掛けられた大きな時計へ目をやった。12時30分。授業はもう、後半戦に差し掛かっている。
黒髪がごくりと唾を呑み、どうしよう、と啓志が口走りかけた矢先に――さっ、と二人の前へとA4用紙が差し出された。
「見る?」
ニカッと笑みを浮かべた栗毛の手の中のレポートには、そこまでの10分毎の授業内容がちゃっかり記されていたのであった。
*
勇気を出せ、俺。
啓志は小さく念じてみる。更衣室に向かうさなか、奮い立たせていた奴だ。ハプニングがあって一度は萎んでしまったけれど、あのとき貯金を崩さなかった分、今ならきっと、行ける。
四時間目の体育が終わり、体育担当の先生からやんわりお咎めを受けて、三人はグラウンドを後にした。栗毛、改め笠原燈月は更衣室に戻った瞬間に仲間たちに取り囲まれ囃されて、ワイワイ言いながら出て行った。黒髪改め鈴鹿賢一はと言うと、いつの間にやら消えていた。かくして、下半身を着替え終わった段階で啓志はまた独りになり、結局行きしと同じくとぼとぼと階段を上ったのである。
教室に戻ってみると二人はいた。財布やらなんやらを握りしめた生徒たちが嬉々として一組を飛び出していく中、鈴鹿賢一は廊下側から三行目最前列、教卓の真ん前の席にちょんと腰かけていて、傍の席の笠原燈月は難しい顔で財布の中身を睨んでいた。啓志は、ある意味で幸運を呼んだかもしれないファンシーな体操服入れを机に掛け、次いで鞄から弁当の包みを取り出した。
……勇気を出せ。
息を吸い、吐いた。もう一度息を吸った。いつの間に凍えてしまったのか、指の先が震えている。なのに顔は火照って熱い。気分が悪くて食欲はマイナスだ。恐怖はあった。むしろ、恐怖しかないと言えるかも。
けれど分かっている。ここで踏ん張らなければ、一歩踏み出さなければ、また全ては元のまま。何も変わらないまま今日を終え、また変わらない朝が来るのを待つだけだ。そんなのはもう、ごめんだ。
「笠原、くん」
ん、と目の前の栗毛が降り向いた。そこに切羽詰まった表情で仁王立ちしている男へと、不思議そうに視線を向けた。その手の中の弁当箱へと、一瞬ちらりと視線を落とし、それからもう一度目を合わせてくる。若干困惑したようなその瞳が、啓志には随分痛かった。
「あの、昼飯……」
「おい燈月、学食行くぞー」
被さるような声があって、二人はそちらへ振り向いた。数人の見覚えのある連中が、問答しているこちらをじろじろ眺めている。燈月はくるりと顔を戻した。あ、えっと、と啓志は言葉を濁した。
「いや、その……何でもないんだ。ごめん」
(……やっぱり、自分なんかに声をかけられるのは、迷惑な話だろう)
啓志は笠原へ苦笑を向けた。笠原はそれをまじまじと見上げた。燈月ィ、と誰かが二回目の声を上げると、笠原はぱっと振り返った。
そして、右手をぱたぱた振った。
「わりぃ! 俺メシ持ってるから教室で食べるわ!」
唖然として、啓志は栗毛の横顔を見た。
おーうと返事をして彼の友人たちは去っていった。というわけで昼一緒に食おうぜー、笠原は啓志にそう言って、ニヤニヤと笑った。え、あの、で、でも、あの人達、啓志はそんなふうにどもって、いやいやぁと笠原はぷらぷら財布を振った。
「俺金無いからさぁ、学食行っちゃうとつい金使いたくなっちゃって困るんだよね。せっかくパン持ってきてるのに」
だから一緒に食ってくれよー弁当持ってきてる人ーとぱんぱん笠原は肩を叩いて――あぁなんだろう、その時あらぬことに河合啓志は、胸の高鳴りを感じたのだ!
スクールバッグの中から発言通りのメロンパンを掴みあげ、イスを前後ひっくり返し啓志の机に向かい合おうとした笠原は、途中でそれを取りやめた。そして教室前方へと目をやった。誘うか、と彼は再びにやついた。うんと啓志は頷いた。
「鈴鹿くんも弁当男子ー?」
そんな風に笠原は言った。教室に残っていた男女が数人振り向いて、それからしばらくあって、当人は渋々といった様子でようやくこちらを向いた。机の上には紛うことなく弁当箱が乗せてあって、蓋の開封直前にまで達していた。
鈴鹿は警戒するように一瞬目を細めて、その後何も言わずに黒板側へと直ってしまう。
「あ、あれ?」
「なんだよあいつー、よし行くか」
「えっ、えぇっ!?」
笠原はすたすた歩いていく。ボサボサ黒髪の、その動かない背中へ向かって。
安堵と高揚とがないまぜになった感情を持て余して、啓志は口をぱくぱくさせて、それから弁当を抱え直した。確かにこれは、挙動不審と言われても仕方ない。けれど、そうと言われても余りあるほどの大きな大きな期待感が、中に膨らみ始めていた。
教室の前方で二人は何やら言葉を交わして、笠原は笑って、鈴鹿は不満げに眉根を寄せた。一人がこちらに手を振った。啓志はもう一度頷いた。
かくして、河合啓志の高校生活は、ようやく幕を開けたのであった。
高校一年生春、初回の授業の最初の体操。先生に習って行う所作は、小中で慣れたものにもかかわらず恥ずかしげでぎこちない。恥ずかしげ、とは言うものの、遠慮がちな掛け声はげんなりするほど男臭く、初っ端なのに嫌気が差しそう。見学するならそちらがよかった女子のチームは、グラウンド東寄りの体育館に詰め込まれているようだ。
その、記念すべき第一回目の準備体操を、グラウンド脇のひんやり冷たいベンチに腰掛けて、ジャージ(下)に学ラン(上)の啓志は、微妙に達観した複雑な心境で眺めていた。
空は青く、照り付ける太陽は燦々と煌めき。生徒たちの真新しい体操服は爽やかに、白く目映(まばゆ)く輝いている。
これは、あれではないか。世間一般に、青い春、とか呼ばれる奴では。セイシュンですよ。夜な夜な思い描いてきた、うら若き高校生諸君に等しく待ち受けるはずの、勿論俺にだって訪れる予定の、その。――それを芋ジャージ一本で(まぁ同じ体操服だけれど)、もってり腰掛けてじろじろ眺めている、十五の俺。いやなんか違うだろ。何か徹底的におかしいだろ。こんなの約束と違う。想像してた高校生じゃない。俺が送りたいのはさぁ、もっとこうなんだその、さぁ!
……まったくここ数日一体何してんだ俺。さっきまで達観していたはずが怒ったり嘆いたり放心したり、啓志は一人で忙しい。
啓志の右手には完全に制服のままの栗毛が、左手の少し離れた位置に啓志とあべこべの恰好(ジャージと学ランの意味で)をした黒髪が同じように座っていた。
右手に目をやると、栗毛は手にした鉛筆をA4用紙の上に走らせている。『10分ごとに授業の様子を細かく記入すること』、取り繕った理由で授業の見学を申し出た彼らに課されたのがその粗末なレポートであった。
書き込まれた氏名欄をこっそり覗き見ようと試みた瞬間に、栗毛は隠すように胸に抱えるてしまった。
「あーラッキーだったなぁ。二人も体育サボり仲間ができるなんて」
そう言ってにやりとする栗毛に啓志はあははと気の抜けた笑い声で返したが、黒髪の方は腕を組んで顔を向けもしなかった。
「……初回の授業なのに」
黒髪の明らかに不満げな態度を全く気にする様子もなく栗毛は身を乗り出して、
「でもさ、体操服を中学んと間違えるのはさすがにないって! 面白いなー」
「あれは、俺じゃな……」
「えっ、じゃあ親に用意してもらってんの?」
ますます左半身に感じる空気が冷たくなる。この栗毛、相手の様子を気にしないというより、むしろ神経を逆なでしようとしているんじゃないかとさえ啓志には思われた。生来啓志は割と人の目を気にするというか、気を使いすぎて心労を起こすようなタイプの人間だ。だからこういう、遠慮ないタイプとはあんまり馬が合わない。
すると、黒髪の方もむっとして身を乗り出した。
「そんなことお前には関係ないだろ」
だからこういう、すぐ攻撃的な態度を取るタイプも苦手である。
つまり啓志は苦手な人種に両サイドを取られていた。これは非常に思わしくない展開だ。気まずいにもほどがある。サボり魔にいいように流されたことどころか、啓志はベンチの真ん中の腰掛けたあの何気ない選択さえ猛烈に後悔しはじめた。
それはともかく、黒髪があからさますぎる険悪ムードを漂わせる一方で、栗毛は何の気もアリマセンといった相変わらずな表情で、抱えた下敷きの上の用紙にさらさらと何かを書き付けていく。
「いやー、羨ましいなぁって思ってね、そういうの」
本当に何気なくなその声には、ひとかけらの悪意も感じられない。
グラウンド上の生徒たちが列を作って移動していく。どうやらランニングが始まるらしかった。ランニング。ああ。走るのは嫌いだった。嫌いだけれども、畜生この野郎、青春バンザイ!
啓志は黒髪の膝の上に乗せられた用紙の方も盗み見た。けれど、それにはまだ何ひとつ書き込まれていない。レポートの存在はアウトオブ眼中か、初回の授業を休んでしまったことがよっぽどショックらしい。
「ねぇ、体育好き?」
え、と振り向くと、幾分座高の高い啓志を見上げるように栗毛が見ている。
「あ、うん……まま、まぁ、あんまり……ね」
しどろもどろに答えると、どこか安心したように、栗毛はニッコリ笑顔を見せた。
*
栗毛は饒舌な男だった。
饒舌というか賑やかというか、一体どこに膨大な会話ボックスを隠し持ってるのかと思わせる程に、ひたすらぺらぺら喋る喋る。上唇と下唇の紡ぎ出す言葉は歌うように踊るようにリズミカルでせわしなく、とどまるところを全く知らない。そうかと思えばこちらの発言する隙をしっかり与えていて、威圧感をこれっぽっちも感じない。これがプロフェッショナルと言うやつか、と啓志は授業開始五分で恐れ入ったが、特に感心させられたのは、その会話スキルの相手を選ばないところであった。
「ねぇねぇ鈴鹿(すずか)くん」
こちらのぺちゃくちゃお喋りなんて聞こえない様子で始終むすっとしていた黒髪が、面倒そうにこちらを向いた。あぁ、そんくらい対人慣れしてれば、やっぱし名前、覚えれますよね。そこまで思って啓志は、ようやく黒髪の体操服に刻まれた苗字を発見したのである。なるほど、鈴鹿くん。よし覚えた。威圧的根暗黒髪の彼の名前は鈴鹿くん。
「……」返事くらいしろよ、鈴鹿くん。
「鈴鹿くんってさぁ、中学あそこでしょ、附属の」よもや出身校まで覚えていようとは!
「……それが何か」あ、でもそういやそうか、あの青紺の体操服、そういや附属の、そうだそうだ。
「いやー凄いじゃんあそこ超難関じゃん、ってことはめっちゃ頭いいんだよね鈴鹿くん、凄いなぁ凄いわ」
ニコニコ話し掛ける栗毛くんを、鈴鹿くんは蔑んだ目で見下ろしている。
そう言われてみれば、と啓志もぼんやり思い出し始めた。最初の最初、入学式直後の(ほとんどパニックを起こしていた、あの)自己紹介の時に、教室を一際ざわつかせた生徒がいる。真ん中右寄りの列の一番前の席の人で、出身校を言った途端、生徒も保護者も目を丸めたのだ。そうだ。確かに彼だった。中高どころか幼稚園から大学まで一貫の、超々エリート私立中学からこんな公立にやって来たという稀有な男は。
「鈴鹿賢一(けんいち)でしょ、印象的だったから覚えてた。話してみたいなーと思ってたんだよね。ねぇやっぱ、余裕なの? さっきの数学とか余裕だった?」
更衣室で見せたような困惑した表情を浮かべる黒髪には、エフェクトが出そうなほど目を輝かせる栗毛のペースに飲まれまいとする抵抗の色が見え隠れする。
「……今日の分は、小学校でやった」
「小学校! ねぇ、小学校だって、どうしようレベルが違う」
嬉しそうに話を振ってくる栗毛くんに、うんうんと啓志は頷いて返した。
となると、あれだ。気になるのは、そんなエリート街道まっしぐらの附属生が、なぜこんな公立に進学してきたのか。よっぽど頭が悪かったのか(そんな風には見えないけれど)、はたまた虐められでもしたのか(ああ、どうしよう、そんな風にしか見えないよ!)。とにもかくにもそんなデリケートな話題に触れるわけにはいかないな、と啓志が思った矢先だった。
「なんで附属高校行かずにイチ高(ここ、宇城第一高校の愛称)に来たの?」
栗毛がにこやかに言った。
びく、と鈴鹿賢一の体が強張るのが、間近の啓志に伝わってきた。なんという予想通りの展開か、あぁ、こいつ、なんてことを! 鈴鹿またキレるぞ……内心怯えながら啓志は黒髪の方を見たが、そこにあったのは意外にも、取り繕ったような平生を浮かべた彼の姿。
「……親の都合、だ」
あ、答え用意してたみたいだ、啓志はそう感じてから、そんなところに気づいてしまう自分がなんだか嫌になる。へー、と栗毛は間延びした相槌で返した。親の都合。とすると、金銭的な事情か何かか。
さすがにやってしまったと思ったのか、それとも何も思っていないのか、栗毛は視線を落とすとカリカリと鉛筆を動かし始めた。
……気まずい。目線を背ける両サイドに肩身の狭い思いをしながら、啓志は縮こまっていた。体のサイズだけで言えば、啓志は二人より大きめである。けれどもいつの間にか、というかあっという間に、そうして小さくなっているのが彼の鉄板になりつつあった。完全に二人のターンだ。真ん中の彼など、もはや完全に路傍の石ころ。
だけど、そんなふうに気を揉んでいる格好が彼らの関係性を上手く機能させていることに、この先啓志は、しばらく気づかず過ごしていく。
「……笠原(かさはら)」
「へ」
「笠原燈月(ひつき)。そうだろう」
黒髪がぼそりと口を開いたのは、啓志がなんと会話を切り出そうか、思案を巡らせている最中だった。
栗毛はくりくりの瞳を更に丸めて、それから喜々として身を乗り出した。
「合ってるよー、名前覚えててくれたんだ」
「……変な名前だから覚えた」
酷いなぁ、と苦笑する栗毛――改めて笠原くん、笠原燈月くん、近頃はそういうのも珍しくないけど、確かに変わった名前だ――に、黒髪はそうは言っても少し得意げな顔を見せた。
自分よりコミュニケーションが不得手だと思っていた人が、自分の知らない人間の名前を知っていたことに、啓志は失望にも似た落胆を覚える。皆、凄いなぁ、思わず呟いてしまった独り言は、悪いことに両サイドの耳に届いてしまったようだった。
「凄い? 何が」
「あーランニングのペース? 確かにあれは凄いね、時間も長いし」
一人視線がグラウンドを向いている栗毛をよそに、うん、と啓志は頭を掻いた。
「人の名前ちゃんと覚えてるのとか」
「……? 何が凄いんだ」
「えっ、鈴鹿くんはともかく、俺の名前知らなかったの、河合くん」
啓志は反射的に顔を上げ、目を見開いた――こんな、こんな地味糞な俺の名まで、まさか覚えていようとは!
「う、うん……というか……あの」
「えぇっまじかー! それはさすがに、えーっ凹むなぁそりゃあまあ俺チビだし河合くん背高いから視界に入らないかもしれないけどでもさすがにそれは――」
「俺の名前も覚えてくれてたんだ……あの……」
ありがとう、とよく考えればまったくもって礼なんか言う必要もないのに礼を言いそうになった矢先、あったり前じゃーん、とちょっと怒ったような栗毛の声が返ってきた。
「だって俺、河合くんの前の席だよ?」
……え?
その心の声は、どうやら口からも漏れてしまったようだった。え、と栗毛も口走った。黒髪まで、まじかよ、というような怪訝な視線を送ってきた。
そう、いえ、ば……? 記憶の糸を、一本二本手繰っていく。前の席。入学式が始まる前に間近に集まり騒いでいた、目の前の席のあの連中。二日目の帰りのホームルーム、先生の話の最中に、二つ前の奴とこっそりアドレス交換していた男子生徒。思い出せ。その顔。確かに前の学ランは小さくて、黒板は見やすかった気がするが、その男、目の前の席の、顔……
「……そうだっけ?」
「顔も覚えてられてなかったか……」
肩を落とすというわざとらしいアクション付きで、栗毛はがっかりして見せた。ゴメン、と啓志は手を合わせた――確かに啓志は今の今まで、友人を作る努力と言うのを、何一つとしてしてこなかったのであった。
なんという自業自得か。これは反省せざるを得ない。『どんより』感を醸し始めた啓志を見かねて、気にすんな、と栗毛はばんばん背中を叩いた。黒髪は鼻で笑って、ゆったりと背もたれに寄り掛かった。
「妙に挙動不審なやつだと思ってたが、通りで」
「ハハハ、言ってやんなってぇ」
「いやだってその……俺……ごめんほんとごめん」
「いやいやもういいって、俺、笠原燈月ね。一年一組出席番号五番『の方』の笠原です、覚えてね!」
「うん、俺、えっと河合」
「啓志でしょ、知ってる」
「う、うん……ごめん……」
ハッハッハと栗毛が笑うのがグラウンドに遠く響いて、ランニングから戻ってきた生徒数人が顔を向けた。生ぬるい春の風が吹いて、もうもうと砂煙が立った。隣で黒髪がくしゃみをした。
尻をつけた時には冷たかったベンチが、陽気に誘われたのか随分温まってきた。自責と後悔、そしてこれから、もう少し頑張ってみなくちゃな、というささやかな決心を固め始めた啓志は、何気なく自分の膝へと視線を落として――あぁっ、と素っ頓狂な声を上げた。
そこには真っ白なレポート用紙があった。
先生の話を聞いている生徒の数人がまたしても視線を投げかけてくる。なんだなんだ、と顔を向ける栗毛、おそらく同じことに勘付いてしまったらしい黒髪がさぁっと青ざめる真ん中で、啓志は校舎に掛けられた大きな時計へ目をやった。12時30分。授業はもう、後半戦に差し掛かっている。
黒髪がごくりと唾を呑み、どうしよう、と啓志が口走りかけた矢先に――さっ、と二人の前へとA4用紙が差し出された。
「見る?」
ニカッと笑みを浮かべた栗毛の手の中のレポートには、そこまでの10分毎の授業内容がちゃっかり記されていたのであった。
*
勇気を出せ、俺。
啓志は小さく念じてみる。更衣室に向かうさなか、奮い立たせていた奴だ。ハプニングがあって一度は萎んでしまったけれど、あのとき貯金を崩さなかった分、今ならきっと、行ける。
四時間目の体育が終わり、体育担当の先生からやんわりお咎めを受けて、三人はグラウンドを後にした。栗毛、改め笠原燈月は更衣室に戻った瞬間に仲間たちに取り囲まれ囃されて、ワイワイ言いながら出て行った。黒髪改め鈴鹿賢一はと言うと、いつの間にやら消えていた。かくして、下半身を着替え終わった段階で啓志はまた独りになり、結局行きしと同じくとぼとぼと階段を上ったのである。
教室に戻ってみると二人はいた。財布やらなんやらを握りしめた生徒たちが嬉々として一組を飛び出していく中、鈴鹿賢一は廊下側から三行目最前列、教卓の真ん前の席にちょんと腰かけていて、傍の席の笠原燈月は難しい顔で財布の中身を睨んでいた。啓志は、ある意味で幸運を呼んだかもしれないファンシーな体操服入れを机に掛け、次いで鞄から弁当の包みを取り出した。
……勇気を出せ。
息を吸い、吐いた。もう一度息を吸った。いつの間に凍えてしまったのか、指の先が震えている。なのに顔は火照って熱い。気分が悪くて食欲はマイナスだ。恐怖はあった。むしろ、恐怖しかないと言えるかも。
けれど分かっている。ここで踏ん張らなければ、一歩踏み出さなければ、また全ては元のまま。何も変わらないまま今日を終え、また変わらない朝が来るのを待つだけだ。そんなのはもう、ごめんだ。
「笠原、くん」
ん、と目の前の栗毛が降り向いた。そこに切羽詰まった表情で仁王立ちしている男へと、不思議そうに視線を向けた。その手の中の弁当箱へと、一瞬ちらりと視線を落とし、それからもう一度目を合わせてくる。若干困惑したようなその瞳が、啓志には随分痛かった。
「あの、昼飯……」
「おい燈月、学食行くぞー」
被さるような声があって、二人はそちらへ振り向いた。数人の見覚えのある連中が、問答しているこちらをじろじろ眺めている。燈月はくるりと顔を戻した。あ、えっと、と啓志は言葉を濁した。
「いや、その……何でもないんだ。ごめん」
(……やっぱり、自分なんかに声をかけられるのは、迷惑な話だろう)
啓志は笠原へ苦笑を向けた。笠原はそれをまじまじと見上げた。燈月ィ、と誰かが二回目の声を上げると、笠原はぱっと振り返った。
そして、右手をぱたぱた振った。
「わりぃ! 俺メシ持ってるから教室で食べるわ!」
唖然として、啓志は栗毛の横顔を見た。
おーうと返事をして彼の友人たちは去っていった。というわけで昼一緒に食おうぜー、笠原は啓志にそう言って、ニヤニヤと笑った。え、あの、で、でも、あの人達、啓志はそんなふうにどもって、いやいやぁと笠原はぷらぷら財布を振った。
「俺金無いからさぁ、学食行っちゃうとつい金使いたくなっちゃって困るんだよね。せっかくパン持ってきてるのに」
だから一緒に食ってくれよー弁当持ってきてる人ーとぱんぱん笠原は肩を叩いて――あぁなんだろう、その時あらぬことに河合啓志は、胸の高鳴りを感じたのだ!
スクールバッグの中から発言通りのメロンパンを掴みあげ、イスを前後ひっくり返し啓志の机に向かい合おうとした笠原は、途中でそれを取りやめた。そして教室前方へと目をやった。誘うか、と彼は再びにやついた。うんと啓志は頷いた。
「鈴鹿くんも弁当男子ー?」
そんな風に笠原は言った。教室に残っていた男女が数人振り向いて、それからしばらくあって、当人は渋々といった様子でようやくこちらを向いた。机の上には紛うことなく弁当箱が乗せてあって、蓋の開封直前にまで達していた。
鈴鹿は警戒するように一瞬目を細めて、その後何も言わずに黒板側へと直ってしまう。
「あ、あれ?」
「なんだよあいつー、よし行くか」
「えっ、えぇっ!?」
笠原はすたすた歩いていく。ボサボサ黒髪の、その動かない背中へ向かって。
安堵と高揚とがないまぜになった感情を持て余して、啓志は口をぱくぱくさせて、それから弁当を抱え直した。確かにこれは、挙動不審と言われても仕方ない。けれど、そうと言われても余りあるほどの大きな大きな期待感が、中に膨らみ始めていた。
教室の前方で二人は何やら言葉を交わして、笠原は笑って、鈴鹿は不満げに眉根を寄せた。一人がこちらに手を振った。啓志はもう一度頷いた。
かくして、河合啓志の高校生活は、ようやく幕を開けたのであった。
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